元寇終焉の地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 04:30 UTC 版)
鷹島は2度の元寇と深いかかわりを持つ。文永の役では元軍が鷹島に上陸して住民を虐殺している。 続く、弘安の役では平戸島から鷹島に進出してきた元軍に対して、集結した日本軍が攻撃を仕掛けて海戦となる(鷹島沖海戦)。 『心史』によれば、元軍は鷹島に上陸すると、日本軍の襲来に備えて、塁を築いて防備を固めたとされる。当初、平戸島から太宰府目指して進撃する計画を立てていた元軍であったが、『元史』相威伝によれば、躊躇して進撃できなかったという。このような中、台風が襲来し元軍は大損害を被った。元軍諸将は軍議を開き、継戦か撤退か議論し、最終的に撤退に決する。 諸将は頑丈な船を選び、兵卒を船から無理矢理下ろすと、乗船して兵卒を見捨て逃走した。鷹島に残された約10万の元軍は船を建造して撤退することにする。ところが鷹島に日本軍が襲来し、元軍は2、3万の捕虜を出し壊滅した(鷹島掃蕩戦)。鷹島には、この鷹島掃蕩戦の激しさを物語るものとして、首除(くびのき)、首崎、血崎、血浦、刀の元、胴代、死浦、地獄谷、遠矢の原、前生死岩、後生死岩、供養の元、伊野利(祈り)の浜などの地名に名残を残している。 この際に沈没した元軍船を巡って水中考古学の立場から調査が行われ、パスパ文字で作成された「管軍総把印」を始め船舶に関する遺物や武器・武具などが多く発見されており、遺物がある南岸一帯(汀線から沖合200m、延長7.5km)は埋蔵文化財包蔵地として周知されている。その一部は「元寇終焉の地」として松浦市立鷹島歴史民俗資料館や鷹島埋蔵文化財センターで見ることができる。 また、2011年には琉球大学教授池田榮史によって海底遺跡(鷹島神崎遺跡)の発掘調査が行われ、沈没した軍船の竜骨と外板が初めて発見された。
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