元軍船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)
文永の役の元軍船 元軍が撤退中に暴風雨を受けた文永の役においては、高麗は軍船を建造するのに「蛮様」(南宋様式)の船(竜骨を持ち、隔壁構造の船)にしたのでは建設費がかさみ期限には間に合わないので、高麗様式の船を造船したとされており、軍船の準備が整っているので日本を征服しましょうとの忠烈王によるクビライへの進言は実態とまったく異なることであったことが記されている。 弘安の役の元軍船 弘安の役において台風により元軍船が沈没した理由として、船の建造が、服属させた高麗人や南宋人に造らせたことにあるという粗製乱造説がある。彼らはモンゴル人支配に不満を募らせていたという前提の下、造船が急務であったこともあり、突貫工事的に手抜きによって建造されていたのではないかという説である。しかし、手抜きを裏付ける史料は無く、むしろ元朝の官吏・王惲の記事『汎海小録』や『高麗史』には高麗船が頑丈だったことが指摘されており、実際に高麗船での生還者は多かった。詳しくは弘安の役・台風を参照。 また、長崎県松浦市の海底遺跡「鷹島神崎(こうざき)遺跡」で発見された元軍沈没船の琉球大学と松浦市教委による調査の結果、元軍船の船底は二重構造となっており、頑丈に造られていたことが判明した。調査を主導した琉球大学教授・池田栄史によると、船底に内側から木材を張って二重に補強することで水が入り込まないように工夫していたとみられ、当時の貿易船では見られない頑丈な構造であった。これらの新発見の結果、池田栄史は「(元軍船は)丁寧な組み方をしており、粗製乱造ではなかったのでは」と粗製乱造説に否定的見解を示した。なお、発見された元軍船の全長は、25〜27mほどと推定されている。また、船体とは別に発見されていた最も大きい碇の一部から推定できる最大級の元軍船は40mに達するという見解もある。
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