鎌倉期の神風観とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 鎌倉期の神風観の意味・解説 

鎌倉期の神風観

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)

元寇」の記事における「鎌倉期の神風観」の解説

文永の役において元軍は神風壊滅し日本側が勝利したという言説流布し背景として、当時日本国内では元寇日本の神と異賊の争いと見る観念共有されており、神社や寺による折伏祈祷歌詠み日本の神の力を強める(天人相関思想)と信心されていた。そのため、元軍を撃退できた要因折伏祈祷による神力神風であると神社等は宣伝し幕府に対して恩賞求めた例えば、公家広橋兼仲は、その日記『勘仲記』の中で「逆風の事は、神明ご加護」 と神に感謝している。また、1276年建治2年至元13年)の官宣旨文言中にも蒙古凶賊等が鎮西来着合戦をしたのだが、神風荒れ吹き、異賊は命を失い、船を棄て或いは海底沈み或いは入江や浦に寄せられた。これは即ち霊神征伐観音加護違いない」 とあり、当時から元軍を襲った暴風雨神風とする認識存在していたことが窺えるまた、敵国調伏加持祈祷によって日本の神や仏も戦闘動員され元軍を撃退できたとする観念は、各社による「神々による軍忠状」という形で現れ戦後幕府に対して各社による恩賞要求激しかった元寇における神々活躍例を挙げると以下のようなものが見受けられる寺社縁起八幡愚童訓』によると、日本軍水城敗走した後、松原に陣を布く元軍に八幡神化身30人ほどが矢を射掛け恐れ慄いた元軍は海に逃げ、さらに海から炎が燃え巡り、その中から現れ八幡神顕現した思われる兵船2艘が突如現れて元軍を皆討ちとり、辛うじて沖に逃れた者には大風吹き付けられて元軍は敗走したという。同様の話は『一代要記』にもあり、大宰府軍(日本軍)が敗北した後、神威顕現した思われる兵船2艘が現れて元軍と戦い、これを退散させたとしている。 また、肥前国武雄社では、戦後論功行賞から漏れたため、幕府に以下のように文永・弘安の役における勲功訴えている。『武雄神社文書によれば文永の役の際の10月20日の夜、武雄社の神殿から鏑矢元軍船目掛けて飛び結果、元軍は逃げていったとしており、また、弘安の役に際しても、上宮から紫の幡(のぼり)が元軍船方に飛び去って大風起こしたという。 幕府は、こういった各社による軍忠状に対して神領興行令と呼ばれる徳政令各社に対して3度発布し恩賞当てた

※この「鎌倉期の神風観」の解説は、「元寇」の解説の一部です。
「鎌倉期の神風観」を含む「元寇」の記事については、「元寇」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「鎌倉期の神風観」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「鎌倉期の神風観」の関連用語

1
0% |||||

鎌倉期の神風観のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



鎌倉期の神風観のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの元寇 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS