鎌倉期から江戸末期まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:51 UTC 版)
「法住寺 (京都市)」の記事における「鎌倉期から江戸末期まで」の解説
その後、法住寺は後白河法皇の御陵をまもる寺として長く存続した。前述のごとく鎌倉時代までは建春門院を祀る法華堂、後白河法皇を祀る法華堂が、蓮華王院の東に並び立っていた。時の権力の変遷に伴って法住寺はいくつかの近隣寺院と関係を持った。とくに妙法院との関係は依然として密接であった。 豊臣秀吉の時代には、すぐ北にあった方広寺(大仏)が法住寺や蓮華王院の寺域を包摂するということもあったが、江戸幕府によって妙法院が重要視されるようになると、妙法院と一体視され、法住寺は妙法院門跡の「院家」として待遇された。妙法院の日記である『妙法院日次記』には、江戸時代を通じて、法住寺の名前があがっている。また現在は法住寺と分離されている隣接の後白河天皇陵内に「法住寺」と書かれた江戸時代の手水鉢が残されており、後白河天皇の陵を継続してまもってきたことが知られる。なお妙法院に住持した歴代法親王(門跡)の墓所も法住寺境内にあった。 また元禄年間(1688年 - 1704年)には大石内蔵助が当寺に参拝したと伝えられ、その縁から四十七士木像も安置されている。幕末に法住寺陵が後白河天皇の御陵ではないと唱えた学者が現れた時、当時の住持が御陵の真下を掘ったところ記録どおりに天皇の遺骨を納めた石櫃が見つかったといわれている。
※この「鎌倉期から江戸末期まで」の解説は、「法住寺 (京都市)」の解説の一部です。
「鎌倉期から江戸末期まで」を含む「法住寺 (京都市)」の記事については、「法住寺 (京都市)」の概要を参照ください。
- 鎌倉期から江戸末期までのページへのリンク