鎌倉期の問注所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 05:46 UTC 版)
当初、問注所は訴訟に対する裁判事務は行わず、武家棟梁である源頼朝へ訴訟事案を進達することを任務としていた。『吾妻鏡』には、頼朝邸内の東西にある小さな建物を問注所と号したとある。頼朝邸内に多数の訴人が集まり、怒号・喧噪が飛び交ったため、頼朝はそれにうんざりし問注所の移転を命じたとされる。その結果建久10年(1199年)4月1日、問注所は別の場所へ移転されたが、その3ヶ月前に頼朝は死亡していた。しかし、頼朝が移転を命じたきっかけとされる事件は6年前の出来事である熊谷直実と久下直光の訴訟のときであり、武家棟梁の命令が6年も実行されなかったのは不自然であると考えられることから、頼朝の命令とする記述が『吾妻鏡』の曲筆で、実際には親裁の継続を望む武家棟梁・頼朝とそれに不満を抱く御家人との間に意見対立が存在し、頼朝の死によって初めて将軍御所の外への移転が実現できた、とする説もある。 なお現在、移転後の地(現御成小学校前)には「問注所旧蹟碑」が立てられている。また由比ヶ浜から問注所へ向かう道筋に、「裁許橋」があり、さらに、訴訟の結果由比ヶ浜で処刑された者の供養のための六地蔵などがある。 問注所は当初、訴訟・裁判事務全般を所管したが、訴訟事案の増加に伴い、次第に事案が滞り始め、事務処理の迅速化が求められるようになった。そこで、建長元年(1250年)12月9日、引付衆が新設された。引付衆は御家人の所領関係訴訟(所務沙汰)を扱い、問注所ではその他の民事訴訟(雑務沙汰)及び訴訟雑務(主に訴状の受理)を扱うという役割分担がなされた。ちなみに刑事事件の取扱い(検断沙汰)は侍所が所管した。 以上の引付衆・問注所・侍所の所管地域は東国に限られており、西国については京の六波羅探題等が所管していた。すなわち問注所は東国の一般民事訴訟を取り扱っていたということになるが、そのうち鎌倉市中の一般民事訴訟については問注所ではなく政所が所管していた。
※この「鎌倉期の問注所」の解説は、「問注所」の解説の一部です。
「鎌倉期の問注所」を含む「問注所」の記事については、「問注所」の概要を参照ください。
- 鎌倉期の問注所のページへのリンク