鎌倉殿の嫡男とは? わかりやすく解説

鎌倉殿の嫡男

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 14:59 UTC 版)

源頼家」の記事における「鎌倉殿の嫡男」の解説

寿永元年1182年8月12日源頼朝嫡男として鎌倉比企ヶ谷の比企能員屋敷生まれる。幼名万寿。母は頼朝流人時代に妻となった北条政子頼朝36歳鎌倉入り3年目待望後継者男子として、周囲祝福一身受けて誕生であった政子頼家懐妊した際、頼朝安産祈祷のため鶴岡八幡宮若宮大路整備行い、有力御家人たちが土や石を運んで段葛作り頼朝が自ら監督行った頼家乳母父には頼朝乳母であった比企尼養子である能員が選ばれ乳母には最初の乳付の儀式比企尼次女河越重頼室)が呼ばれ梶原景時の妻の他、比企尼の三女平賀義信室)、能員の妻など、主に比企氏一族から選ばれた。 頼家側近は、比企宗員比企時員小笠原長経北条時房中野能成源性、義印、紀行景平知康などであり、政治的後見人梶原景時比企能員であったいずれも頼朝によって指名され人々である。 建久4年1193年5月富士の巻狩りで、12歳頼家初めて鹿を射ると、頼朝喜んで政子報告使い送ったが、政子武将嫡子なら当たり前のことであると使者追い返した。これについては、頼家比企氏と関係が深かったため政子がそれを嫌ったとする説や、頼家鹿狩りは神によって彼が頼朝後継者みなされたことを人々認めさせる効果持ち、そのために頼朝ことのほか喜んだのだが政子にはそれが理解できなかったとする説がある。一方で政子発言頼家貶めるための『吾妻鏡』曲筆で、実際にそのような発言はなかったとする説もある。なお、この巻狩り曾我兄弟の仇討ち起こり叔父源範頼頼朝謀反疑い受けて流罪されている。 建久6年1195年2月頼朝政子頼家大姫伴って上洛する。頼家6月3日24日参内し、都で頼朝後継者としての披露が行われた。建久8年1197年)、16歳従五位上右近衛権少将叙任される生まれながらの「鎌倉殿」である頼家武芸達人として成長した

※この「鎌倉殿の嫡男」の解説は、「源頼家」の解説の一部です。
「鎌倉殿の嫡男」を含む「源頼家」の記事については、「源頼家」の概要を参照ください。

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