流人
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流罪
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 15:25 UTC 版)
「アンゴルモア 元寇合戦記」の記事における「流人」の解説
朽井迅三郎(くちい じんざぶろう) 声 - 小野友樹 本作の主人公。二月騒動で幕府に捕えられ、対馬に流刑された若き鎌倉武士。義経流(ぎけいりゅう)の武芸者。 フィクションの人物であるが、八幡愚童訓に、対馬での戦いに参加した流人として「口井藤三」という名が載っており、名前はここから取られた。 諱は光影(みつかげ)。 鬼剛丸(おにたけまる) 声 - 小山力也 巨漢の海賊。迅三郎に捕縛され対馬へ共に流される。敵将の劉復亨との一騎打ちで死亡したかと思われたが、博多編で生存していた。 白石和久(しらいし かずひさ) 声 - 乃村健次 元御家人(地頭)。自ら「馬上打物で白石和久の右に出る者無し」というほど、馬上打物を得意とする。蒙古軍に内通していた男衾を斬り、代わりに自分が内通者となる。内通がばれた際は朽井と一騎打ちをし、首を落とされる。首は輝日姫に渡され裏切者であるが手厚く葬られた。 男衾三郎(おぶすま さぶろう) 声 - 浜田賢二 元御家人。「武蔵国の大将軍」と呼ばれたと自称する。兄を討ち家督を奪ったが、幕府に露見し、対馬に送られた。宗氏勢の金田城への入城後、蒙古軍に内通する。白石を内通に誘い、断られて斬ろうとするが逆に斬られる。 阿無志(あむし) 声 - 堀江瞬 夜目が効き、斥候を得意とする少年。京都で盗みをして捕まった。島の孤児たちを逃がすために敵軍の焚火に「てつはう」を入れて混乱させたが、海に逃げ込む際に首を射抜かれて死亡。 導円(どうえん) 声 - 小林裕介 僧侶、金創医。「日本一の名医」と自称する。漢人の石火矢に撃たれて死亡。 火垂(ひたり) 声 - 竹内良太 弓を得意とする。蒙古軍と交戦中に額を射抜かれて戦死。 張明福(ちょうみんぷく) 声 - 斉藤志郎 筥崎長者と謳われた商人。本人の言葉によれば、宋国の生まれ。役人たちにも賄賂を渡してきたが流刑の身になる。
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流人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 14:46 UTC 版)
関ヶ原の後、宇喜多家は家康によって改易されたが、秀家は伊吹山中に逃げ込んだ。この時、落ち武者狩りの矢野五右衛門に遭遇するが、五右衛門は秀家を自宅に約40日も匿った(五右衛門の子孫は屋敷のあった場所に現在も居住し記念碑が建っている)、とする話が伝わっている。秀家は京の太秦に潜伏、京都所司代の奥平信昌に発見されるが逃走に成功。同じ西軍側であった島津義弘などを頼って薩摩国に落ち延び、牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)に匿われた。後世の編である『常山紀談』では薩摩に遁れ剃髪して、成元さらに休復と号したとしている。このとき、秀家が島津氏に兵を借り、琉球を支配しようとしたという伝説が残っている。 しかし「島津氏が秀家を庇護している」という噂が広まったため、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって家康のもとへ身柄を引き渡された。なお、身柄引き渡しの際に一緒についてきた家臣2名を島津家に仕官させるが、このうちの一人本郷義則は、薩摩の日置流弓術師範の祖、東郷重尚の最初の弓術の師匠となる。 島津忠恒、並びに縁戚の前田利長の懇願により死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉される。慶長11年(1606年)4月、同地での公式史上初の流人として八丈島へ配流となった。 八丈島では苗字を浮田、号を久福と改め、妻の実家である加賀前田氏・宇喜多旧臣であった花房正成らの援助を受けて(初期には秘密裏に、晩年は公に隔年70俵の援助を得ることが幕府より許された)50年を過ごし、高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたとも伝えられる。また、八丈島を所領としていた源(みなもと)家によく招かれ、宴を楽しんだ記録が残っている。源家は宗福寺の住職も兼ねているが、この寺院は宇喜多家の菩提寺である。 また、元和2年(1616年)に秀家の刑が解かれ、前田利常から秀家に、前田家から10万石を分け与えるから大名へ復帰したらどうかとの勧めを受けるが、秀家はこれを断って八丈島に留まった、とも伝わる。 八丈島での生活は不自由であったらしく、「偶然嵐のため八丈島に退避していた福島正則の家臣に酒を恵んでもらった話」や「八丈島の代官におにぎりを馳走してもらった話」(飯を二杯所望し、三杯目はお握りにして家族への土産にした説もあり)などの逸話が伝わっている。また、秀家が島で水汲女(現地妻)を置いたかどうかについては全くわかっていないが、その記録が一切ないことから水汲女を置かなかったと考えられている。 明暦元年(1655年)11月20日、秀家は死去した。享年84。このとき、既に江戸幕府第4代将軍・徳川家綱の治世であった。墓は東京都八丈町大賀郷の稲場墓地、前田家所縁の東京都板橋区板橋の東光寺、同じく石川県金沢市野町の宝池山功徳院大蓮寺などにある。法名は尊光院殿秀月久福大居士。正室・豪姫の法名は樹正院殿命室寿晃大禅定尼。 大名の宇喜多家は滅亡したが、秀家と共に流刑となった長男と次男の子孫が八丈島で血脈を伝え、後に分家(浮田を称す)が3家興った。明治以後、宇喜多一族は赦免となり、元・加賀藩主前田氏の庇護の下で東京(本土)の前田家の土地に移住したが、そのうち何名かは数年後に八丈島に戻った。この島に戻った子孫の家系が現在も秀家の墓を守り続けている。秀家が釣りをしていたと伝わる八丈島・大賀郷の南原海岸には、西(=備前国)を臨む秀家と豪姫の石像が建てられている。
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流人(るにん)
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