花山院忠長とは? わかりやすく解説

花山院忠長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 15:10 UTC 版)

 
花山院忠長
花山院忠長
時代 江戸時代初期 - 前期
生誕 天正16年(1588年
死没 寛文2年9月26日1662年11月6日
改名 忠長→浄屋(法号)
官位 従四位上左近衛少将
主君 後陽成天皇
氏族 花山院家
父母 父:花山院定熙
兄弟 徳大寺実久忠長、松木宗保、定好
教如の娘、佐々木氏の女?[1]
野宮定逸、公海、娘(池田左大夫の妻)?[1]
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花山院 忠長(かさんのいん ただなが)は、江戸時代初期から前期にかけての公家左大臣花山院定熙の長男。官位従四位上左近衛少将花山院家20代当主。法号は浄屋

経歴

慶長14年(1609年)7月、後陽成天皇の女官・広橋局(広橋兼勝の女)と密通した罪により、蝦夷地への配流が決定した(猪熊事件)。同年11月10日に蝦夷地へ向けて出発し、翌慶長15年(1610年)の3月1日に上ノ国に到着し、花沢館へと入った。

11月10日に京都を発った際について、『角田文書』によれば、忠長の父母は粟田口まで着いて行き、人目も憚らずに声を上げて泣き悲しんだという。また、忠長は「花は根に かえるときけば 我も亦 おなじ若葉の 春をこそまて」という歌を詠んだという [注釈 1][2]

同年5月には萬福寺に移り、松前藩の厚遇を得て松前に京文化が伝わる契機を作った。これは、忠長の姉が徳川家康の内室であり、家康から松前慶広に忠長の世話をするよう依頼があったからであるとする説がある[2]。 慶長17年(1612年)4月には、梅見の宴で「都にて かたらば人の いつはりと いわん卯月の 梅のさかりを」「いつはりと ゑそやいはまし 卯月にも 梅のにほひを 風のをくらば」という歌を詠み、慶広は「わきて今日 大宮人の 詠(なが)れは 梅の匂ひの 猶ふかきかな」と返歌したという[2]。また、松前町郷土資料館所有の短冊には、忠長の直筆で「いにしえの 道とはみえて ふるさとの 蓬よもぎが中の 草はえし垣」という歌が記されている。

慶長19年(1614年)5月28日には、配所が松前から津軽へと変更となり、移動している。忠長の流刑時代について、深浦町円覚寺の僧侶・義観弘前中学校の教諭であった森林助に向けた書簡の中で、

  • 慶長)十四年配流、十九年五月帰京せらると或書二あれバ何年頃二候哉、確と相分り不申候
  • 一年居るや二年居るや委しく相分り不申候、
  • 僻地配流の件御尋二候得共、確たる記録無之

と断わりを入れた上で、

  • 深浦の町奉行所の「小山内長助」あるいは「小山内匠」の家に謫居した
  • 「福山の古館」や大館に謫居した

という伝説を紹介している[1]

弘前市出身の学者・外崎覚が森林助に宛てた書簡によれば、忠長は津軽に移った後、初めは黒石に、次は高屋村(現弘前市岩木)に、最後は弘前本町5丁目に住んだという。さらに、忠長は「御筋目ノ方」と結婚して、間に娘が生まれ、赦免された時に「弘前の池田左大夫」の妻となっていた、という伝説も紹介している[1]

寛永13年(1636年)に赦免され出家、降って慶安5年(1652年)に帰洛した。

逸話

陸奥国板留温泉青森県黒石市黒石温泉郷)を訪れた際、川の水と湯が混流して入湯できなかった。そのため村人が板を集めて湯を留めて入ったと伝わり、その伝承から同地が板留温泉と称された[3]

江戸時代後期の菅江真澄は著作『邇辞貴迺波末』(ニシキノハマ)の中で、鰺ヶ沢に滞在中に忠長の古跡を偲んでいる。

系譜

脚注

注釈

  1. ^ 原文「十一月十日花山院少将殿夷ケ島へ遠流爰に哀成事有、父母二人粟田口迄御送人目も無御憚声を上げて今は餘波の事なれば啼ただ悲み給まえ、子息少将殿より一首詠し給ひて残し置給。 花は根に かえるときけば 我も亦また おなじ若葉の 春をこそまて とか朴に侍送給ふ、是を貴賎感得之由候哀成哉。」

出典

  1. ^ a b c d e f 本田伸「<史料紹介>森林助宛の二通の書簡 : 花山院忠長の津軽滞在をめぐって」『弘前大学國史研究』第123巻、弘前大学國史研究会、2007年、35-40頁、ISSN 0287-4318NAID 120002647043 
  2. ^ a b c 福島町「福島町の文化財第三編第一章第三節第三節 松前氏と京都の関係
  3. ^ ワークス『郷土資料事典 : ふるさとの文化遺産』ゼンリン, 人文社 (発売)〈2 (青森県)〉、1997年、62頁。全国書誌番号:99024616https://cir.nii.ac.jp/crid/1130000795088962816 
  4. ^ 佐竹朋子「近世公家社会における葬送儀礼」『国立歴史民俗博物館研究報告』141号(2008年)/所収:佐竹『近世公家社会と学問』吉川弘文館、2024年 ISBN 978-4-642-04357-1 2024年、P35(系図)・61.



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