花山院定誠とは? わかりやすく解説

花山院定誠

読み方かざんいん さだのぶ

公卿。定好の男。内大臣正二位元禄五年薙髪して自寛と号す。書は寂源に就て皇学究め其風敦原壮麗学問好み和歌能くする宝永元年(1704)歿、65才。

花山院定誠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/27 14:16 UTC 版)

 
花山院定誠
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 寛永17年2月26日1640年4月17日
死没 宝永元年10月21日1704年11月18日
改名 定誠→自寛(法号)
別名 号:文恭院
官位 正二位内大臣
主君 後光明天皇後西天皇霊元天皇東山天皇
氏族 花山院家
父母 父:花山院定好、母:鷹司信尚
兄弟 忠広、定教定誠、万子
正室:大炊御門経孝
継室:稲葉信通
定重、鷹司輔信正室、持実
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花山院 定誠(かさんのいん さだのぶ)は、江戸時代前期の公卿左大臣花山院定好の三男。官位正二位内大臣花山院家24代当主。

経歴

京都にて誕生。2人の兄(忠広・定教)が若くして没した後、承応2年(1653年)に家督を継ぐ。

承応元年(1652年)に叙爵。以降累進し、寛文5年(1665年)に権大納言に就任。その後辞職したが、天和3年(1683年)には再び権大納言に再任された。延宝3年(1675年)から貞享元年(1684年)8月23日にかけて武家伝奏役を務めた。

貞享元年10月3日(1684年11月9日)、禁中にて泥酔した武家伝奏役・甘露寺方長と口論となった[1]。天皇の怒りを買った方長は蟄居を命じられ、12月16日付けで権大納言・武家伝奏を解任されている。定誠は同年12月12日(1685年)に内大臣に任ぜられ、貞享3年(1686年)まで務めた。

元禄5年(1692年)、52歳で出家して自寛と号した。宝永元年(1704年)、薨去。享年65。

系譜

脚注

  1. ^ 『勧慶日記』貞享元年10月3日条・『基煕公記』貞享元年10月7日条。なお、定誠は方長が武家伝奏に任じられた時の先任者で方長の伝奏就任にも関与し、この年の8月まで相役であった。



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