藤原兼雅とは? わかりやすく解説

藤原兼雅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/22 15:26 UTC 版)

 
藤原 兼雅
天子摂関御影』藤原兼雅 (兼雅公)
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 久安4年(1148年
死没 正治2年7月18日1200年8月29日
別名 後花山院左大臣
官位 従一位左大臣
主君 近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇後鳥羽天皇
氏族 藤原北家花山院家
父母 父:藤原忠雅、母:藤原家成の娘
兄弟 兼雅、忠恵、忠雲、忠子、源通親側室、兼経
養兄弟:行雅隆雅
平清盛の次女
九条良通室、花山院忠経五辻家経、兼信、兼成、円雅
テンプレートを表示

藤原 兼雅(ふじわら の かねまさ)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。花山院太政大臣藤原忠雅の長男。官位従一位左大臣後花山院左大臣と号す。花山院家4代。

経歴

人物

父・忠雅の後を継ぎ中央官界に進出、平清盛の娘を室として、平氏政権下において順調に昇進を重ねる。このため寿永2年(1183年)には源義仲によって一旦官職を追われるが、後白河法皇の信任を背景に文治3年(1187年)に元の地位である大納言に復帰、以後正治2年(1200年)に左大臣に至るまで昇進を重ねた。

激動期の宮廷にあって最終的に地位を全うしたことで、後世における花山院家の発展の基礎を築いた。和歌今様に通じた才人でもあった。

系譜

脚注

  1. ^ 待賢門院璋子の御給による。
  2. ^ この時、上臈の頭中将藤原家通を超越して叙せられた。
  3. ^ 前年に春宮大夫を止められた時に恐懼に処せられていたことによる。
  4. ^ 子・家経参議に申任するためという。
  5. ^ 『系図纂要』

参考文献





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「藤原兼雅」の関連用語

1
32% |||||

2
30% |||||



5
10% |||||

6
10% |||||

7
10% |||||

8
10% |||||

9
10% |||||

10
10% |||||

藤原兼雅のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



藤原兼雅のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの藤原兼雅 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS