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藤原兼茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/16 00:24 UTC 版)

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藤原兼茂
時代 平安時代前期
生誕 不明
死没 延喜23年3月7日923年3月26日
官位 従四位下参議
主君 醍醐天皇
氏族 藤原北家良門
父母 父:藤原利基、母:当麻松咸娘
兄弟 世秀、兼生、忠彦、兼茂、惟彦、兼輔
存忠、兵衛命婦
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藤原 兼茂(ふじわら の かねもり/かねもち)は、平安時代前期の公卿歌人藤原北家良門流、右近衛中将藤原利基の四男。官位従四位下参議

経歴

寛平9年(897年)兼茂自身が外戚にあたる醍醐天皇の即位に伴い六位蔵人になると、翌寛平10年(898年左衛門少尉に任ぜられる。昌泰2年(899年従五位下叙爵して、引き続き昇殿を許されるが、昌泰の変が発生した翌年の延喜2年(902年)従五位上・播磨介に叙任され地方官に転じる。

延喜9年(909年)昌泰の変以降執政の座にあった左大臣藤原時平が没すると、翌延喜10年(910年)兼茂は左近衛少将として京官に復帰する。のち左近衛権中将・左近衛中将・左兵衛督と武官を歴任する傍ら、延喜14年(914年正五位下、延喜17年(917年)従四位下と昇進を重ねた。

延喜23年(923年)正月に参議に任ぜられ公卿に列すが、同年2月陣座において中風に倒れ、3月7日に卒去。最終官位は参議従四位下兼左兵衛督。

人物

勅撰歌人として、和歌作品が『古今和歌集』に2首、『後撰和歌集』に1首採録されている[1]。『古今和歌集』によると、源実筑紫に湯浴みに向かうのに同伴し、山城国摂津国の境である山崎で歌を贈答した。

延喜11年(911年)に宇多上皇の主催で亭子院で開かれた酒合戦酒豪として招聘され参加[2]

官歴

公卿補任』による。

系譜

尊卑分脈』による。

  • 父:藤原利基
  • 母:当麻松咸の娘
  • 妻:不詳
  • 生母不明の子女
    • 男子:藤原存忠
    • 女子:兵衛命婦

脚注

  1. ^ 『勅撰作者部類』
  2. ^ 藤原明衡撰『本朝文粋』中の紀長谷雄「亭子院賜飲記」
  3. ^ 或いは昌泰2年

出典

  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第二篇』吉川弘文館、1987年
軍職
先代:
藤原仲平
右兵衛督
919 - 923
次代:
源是茂



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