藤原兼頼とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 藤原兼頼の意味・解説 

藤原兼頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/08 07:54 UTC 版)

 
藤原 兼頼
時代 平安時代中期
生誕 長和3年(1014年
死没 康平6年正月11日1063年2月11日
別名 小野宮中納言
官位 正二位権中納言
主君 後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇
氏族 藤原北家中御門流
父母 父:藤原頼宗、母:藤原伊周の娘
兄弟 院の上、兼頼延子俊家基貞能長能季、頼観、昭子源師房
源忠重の娘、藤原千古藤原実資の娘)
藤原宗実、小野宮尼公
テンプレートを表示

藤原 兼頼(ふじわら の かねより)は、平安時代中期の公卿藤原北家中御門流右大臣藤原頼宗の長男。官位正二位権中納言小野宮中納言と号す。

経歴

後一条朝万寿3年(1026年元服と同時に従五位上に叙され、まもなく侍従次いで右近衛少将に任官。万寿4年(1027年正五位下に昇叙される。

長元2年(1029年従四位下右近衛中将次いで従四位上・左近衛中将に叙任される。この年に縁談が成立し、右大臣藤原実資の溺愛した藤原千古を妻と為し、小野宮家の資産を受け継いだ。千古の父・実資はこの縁談を慎重に行い、同じ小野宮流権中納言藤原経通や同・藤原資平らに相談したり、主計頭・賀茂守道を召して婚儀の日取の吉凶を確認したりしている[1]。なお、この縁から兼頼はのちに小野宮中納言と号した。

長元3年(1030年正四位下次いで従三位に叙せられ、藤原道長の孫の世代としてはいち早く公卿に列す。翌長元4年(1031年)に参議に任じられるが、引き続き近衛中将を兼ねる。また、長元7年(1034年)父の頼宗の譲りにより正三位、長元9年(1036年)舅の藤原実資の譲りにより従二位と、近親の後押しを受けて昇進を重ねた。しかしその後、長元9年(1036年)に藤原信家教通の子)、長暦3年(1039年)に藤原通房頼通の子)と、摂関家嫡流の従兄弟たちに権中納言昇進で先を越されている。

後朱雀朝長久3年(1042年正二位・権中納言に叙任される。権中納言昇進後は兼官がない状態であったが、康平2年(1059年)になって春宮・尊仁親王(のち後三条天皇)の春宮権大夫を兼ねている。しかし、尊仁親王の即位を見ることはなく、康平6年(1063年)正月11日に薨じた。享年50。

官歴

公卿補任』による。

系譜

脚注

  1. ^ 小右記長元2年8月26日条、同年9月20日条
  2. ^ 『左経記』
  3. ^ a b c d e 『近衛府補任』

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「藤原兼頼」の関連用語

藤原兼頼のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



藤原兼頼のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの藤原兼頼 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS