藤原兼頼
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時代 | 平安時代中期 |
生誕 | 長和3年(1014年) |
死没 | 康平6年正月11日(1063年2月11日) |
別名 | 小野宮中納言 |
官位 | 正二位、権中納言 |
主君 | 後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇 |
氏族 | 藤原北家中御門流 |
父母 | 父:藤原頼宗、母:藤原伊周の娘 |
兄弟 | 院の上、兼頼、延子、俊家、基貞、能長、能季、頼観、昭子、源師房室 |
妻 | 源忠重の娘、藤原千古(藤原実資の娘) |
子 | 藤原宗実、小野宮尼公 |
藤原 兼頼(ふじわら の かねより)は、平安時代中期の公卿。藤原北家中御門流、右大臣・藤原頼宗の長男。官位は正二位・権中納言。小野宮中納言と号す。
経歴
後一条朝の万寿3年(1026年)元服と同時に従五位上に叙され、まもなく侍従次いで右近衛少将に任官。万寿4年(1027年)正五位下に昇叙される。
長元2年(1029年)従四位下・右近衛中将次いで従四位上・左近衛中将に叙任される。この年に縁談が成立し、右大臣・藤原実資の溺愛した藤原千古を妻と為し、小野宮家の資産を受け継いだ。千古の父・実資はこの縁談を慎重に行い、同じ小野宮流の権中納言・藤原経通や同・藤原資平らに相談したり、主計頭・賀茂守道を召して婚儀の日取の吉凶を確認したりしている[1]。なお、この縁から兼頼はのちに小野宮中納言と号した。
長元3年(1030年)正四位下次いで従三位に叙せられ、藤原道長の孫の世代としてはいち早く公卿に列す。翌長元4年(1031年)に参議に任じられるが、引き続き近衛中将を兼ねる。また、長元7年(1034年)父の頼宗の譲りにより正三位、長元9年(1036年)舅の藤原実資の譲りにより従二位と、近親の後押しを受けて昇進を重ねた。しかしその後、長元9年(1036年)に藤原信家(教通の子)、長暦3年(1039年)に藤原通房(頼通の子)と、摂関家嫡流の従兄弟たちに権中納言昇進で先を越されている。
後朱雀朝の長久3年(1042年)正二位・権中納言に叙任される。権中納言昇進後は兼官がない状態であったが、康平2年(1059年)になって春宮・尊仁親王(のち後三条天皇)の春宮権大夫を兼ねている。しかし、尊仁親王の即位を見ることはなく、康平6年(1063年)正月11日に薨じた。享年50。
官歴
『公卿補任』による。
- 万寿3年(1026年) 10月19日:元服、従五位上[2]。10月26日:侍従。12月27日:右近衛少将
- 万寿4年(1027年) 正月7日:正五位下[3](東宮御給)。正月27日:兼近江介
- 万寿5年(1028年) 2月9日:禁色。2月10日:雑袍宣旨
- 長元2年(1029年) 正月6日:従四位下。正月24日:右近衛中将。3月11日:左近衛中将。12月20日:従四位上(八幡賀茂行幸行事賞)[3]
- 長元3年(1030年) 正月5日:正四位下(小一条院御給)。3月8日:従三位(頼宗卿先年行幸行事追賞)、止介[3]
- 長元4年(1031年) 12月26日:参議、中将如元
- 長元5年(1032年) 2月8日:兼備中権守
- 長元6年(1033年) 12月13日:服解(母)
- 長元7年(1034年) 正月7日:正三位(父譲、行幸上東門院賞)
- 長元9年(1036年) 正月27日:止守[3]。7月10日:従二位(実資公譲、傅賞)
- 長元10年(1037年) 正月22日:兼讃岐権守
- 長久2年(1041年) 正月23日:止守[3]
- 長久3年(1042年) 正月29日:権中納言。10月27日:正二位(父賴宗卿譲、為参木之時行造宮事賞)
- 康平2年(1059年) 10月22日:兼春宮権大夫(春宮・尊仁親王)
- 康平6年(1063年) 正月11日:薨去
系譜
脚注
参考文献
- 藤原兼頼のページへのリンク