藤原通房
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時代 | 平安時代中期 |
生誕 | 万寿2年1月10日(1025年2月10日) |
死没 | 長久5年4月27日(1044年5月26日) |
改名 | 長君(幼名)→通房 |
別名 | 宇治大将 |
官位 | 正二位、権大納言、右近衛大将 |
主君 | 後一条天皇→後朱雀天皇 |
氏族 | 藤原北家御堂流 |
父母 | 父:藤原頼通、母:対の君(源憲定の娘) |
兄弟 | 通房、橘俊綱、覚円、定綱、忠綱、寛子(後冷泉天皇皇后)、師実 養兄弟:嫄子(敦康親王長女)、源俊房・仁覚(源師房長男・三男)、信家(藤原教通長男) |
妻 | 正室:源妧子(源師房の娘) 三松興扶の娘 |
藤原 通房(ふじわら の みちふさ)は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原頼通の長男。官位は正二位・権大納言。
経歴
万寿2年(1025年)関白・藤原頼通の庶長子として生まれるが、頼通の正室・隆姫女王は男子に恵まれなかったため嫡男とされた。また、頼通の正室への配慮と摂関家を継ぐという重要性から、摂関家の事実上の長である祖父・道長の土御門殿で養育される。後に隆姫の弟である源師房の娘を正室に迎えて、頼通は正室・隆姫と嫡男・通房を通じて村上源氏との間に強い血縁関係を成立させる。
後一条朝末の長元8年(1035年)元服すると直ちに正五位下に叙せられ、同年中に侍従次いで左近衛少将に任官する。翌長元9年(1036年)には正月に従四位下、7月に従四位上、11月に正四位下と三階もの昇叙を受け、12月に右近衛中将に任ぜられている。
長暦元年(1037年)には13歳にして従三位に叙され公卿に列すと、翌長暦2年(1038年)にも6月に正三位、8月に従二位と二階の加階に与り二位中将となる。長暦3年(1039年)正月に15歳で権中納言に任じられ、同年閏12月に正二位に昇叙された。長久3年(1042年)権大納言に昇進し、長久4年(1043年)には筆頭の権大納言であった藤原頼宗を差し置いて、右近衛大将を兼ねている。
しかし、後朱雀朝末の長久5年(1044年)正月より蔓延し始めた疫病に罹患し、発病してからわずか7日後の4月27日に薨去[1][2]。享年20。通房が早逝したため、他家に養子に出される予定であった異母弟・師実が後継者として摂関家を継承する事になった。
人物
勅撰歌人として、和歌作品が『後拾遺和歌集』『新勅撰和歌集』に1首ずつ入集している。
官歴
『公卿補任』による。
- 長元8年(1035年) 7月13日:元服、正五位下。10月16日:侍従。11月19日:左近衛少将
- 長元9年(1036年) 正月7日:従四位下(東宮御給)。正月29日:兼近江介。7月10日:従四位上(上東門院御給)。11月16日:正四位下(大嘗会悠紀)。12月8日:右近衛権中将
- 長暦元年(1037年) 10月23日:従三位(行幸上東門院、家子賞)、止介[3]
- 長暦2年(1038年) 6月19日:正三位(中宮遷御左大臣高倉第賞)。8月26日:従二位(皇后宮遷左大臣若松第賞)
- 長暦3年(1039年) 正月26日:権中納言。閏12月26日:正二位(超信家定頼)
- 長久3年(1042年) 10月27日:権大納言
- 長久4年(1043年) 11月27日:右近衛大将
- 長久5年(1044年) 4月27日:薨去[1]
脚注
参考文献
固有名詞の分類
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