洞院実泰とは? わかりやすく解説

洞院実泰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/12 15:08 UTC 版)

 
洞院実泰
時代 鎌倉時代後期
生誕 文永6年(1269年
死没 嘉暦2年8月15日1327年9月1日
改名 実泰→寂元(法名)
別名 洞院左大臣、後山本左府
官位 従一位左大臣
主君 後宇多天皇伏見天皇後伏見天皇後二条天皇花園天皇後醍醐天皇
氏族 洞院家
父母 父:洞院公守、母:平親継の娘
兄弟 実泰正親町実明、賢助、桓守、良守、成助、公厳、覚深、成澄、済助、三条実重室、女子
藤原季子小倉公雄の娘)
高倉康子(高倉永康の娘)
藤原兼頼[1]の娘
公賢、慈厳、公敏、守子、公泰実守
テンプレートを表示

洞院 実泰(とういん さねやす)は、鎌倉時代後期の公卿太政大臣洞院公守の長男。官位従一位左大臣洞院左大臣または後山本左府と号す。

経歴

以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

『徒然草』第83段の逸話

徒然草』第83段に実泰は登場する。太政大臣になれるのに敢えて左大臣止まりを選んだという西園寺公衡に関心して、自身も太政大臣への昇進を望まなかった、というのである。何事も上り詰めるのは良くない、と2人の左大臣を例に兼好は関心しているのである。しかし、この2人の左大臣が太政大臣への昇進を自ら望まなかったというのは彼らの本心であったであろうか。本郷和人の言うように、西園寺家がどちらかというと持明院統派であり、公衡はしばしば大覚寺統と衝突したために太政大臣に昇進できなかったとすれば少々事情は異なってくるのである。後宇多天皇とは従兄弟同士、後二条天皇の母西華門院基子ともいとことなる実泰は大覚寺統派という見方もあるようだが、一方で京極派歌人としての側面も見られ、『玉葉和歌集』には「左大将実泰」として和歌が入首している。

系譜

脚注

  1. ^ 園太暦』巻1所収「洞院系図」は、名を為頼または兼親に作る。いずれが正しいのかは不明。
  2. ^ 従三位内蔵頭

参考文献

先代
洞院公守
洞院家
3代
次代
洞院公賢




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「洞院実泰」の関連用語

洞院実泰のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



洞院実泰のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの洞院実泰 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS