洞院実守
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洞院 実守(とういん さねもり)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。左大臣・洞院実泰の四男。庶兄公賢の養子となり、父から家門継承を期待されるも達せられず、南北朝間を往来した。官位は正二位・大納言(北朝)、右大臣(南朝)。
- ^ 『後深心院関白記』応安元年3月6日条
- ^ 後醍醐天皇からは持明院統にも通じている者として警戒されたらしく、元弘の乱に先立って参議を辞任し、一連の倒幕運動には加担しなかった。
- ^ 実子への洞院家継承は公賢の望みではあったが、やがて南北朝間の中立維持を目論む公賢とそれは不可能であるとして北朝(後光厳天皇)参候に動いた実夏の意見対立をきっかけとし、延文4年の京官除目では実夏が公賢(=洞院家)の家説を批判する言動にまで及んだ。実夏も実守も当主・公賢の意向に従わない後継者であったが、公賢が最も重要視した洞院家の故実・家説の担い手としては実守の方が望まれるようになった(松永、2013年、P242-244)。
- ^ 『園太暦』延文4年12月21日条
- ^ 『後深心院関白記』応安元年3月6日条。なお、公賢が家督を譲った相手を正親町実綱とする説もあるが、その説では公賢死後の家督争いの際に実守が既に洞院家の文庫の印鎰を持っていたことが説明つかなくなってしまう(松永、2013年、P243-244)
- ^ 後光厳天皇は洞院家の故実の継承問題に関心が強く公賢と同様に実守に期待する部分があった。同時に実夏は3度にわたる南朝軍の京都占領に伴う天皇の行幸(京都脱出)に同行しておりその忠節も否定することが出来ず、室町幕府は一貫して北朝を支持してきた実夏の洞院家継承に協力的であった(松永、2012年、P244-246)。
- ^ 『後深心院関白記』康安元年2月2日条
- ^ 後光厳天皇は実夏の“忠節”と実守の“家説”の両方を重んじる立場から両者共存を求めて家領分割を命じたが、近江滞在中の貞治元年/正平17年3月3日に洞院家の家領全てが実夏に安堵されていることから、実守がこの時には南朝方にあったことが推定される(松永、2013年、P245-246)。
- ^ 実守は幕府・公家社会からの信頼が低く洞院家を継ぐことは出来なかったが、朝廷内ではその故実の知識を重んじる評価もあった。このため、応安4年/建徳2年(1371年)には特に酒麹売課役が与えられて家領の代替とされ、叙位除目の執筆役に任ぜられるなどの厚遇を受けている(松永、2013年、P251)。
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