公家衆乱行の発覚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 08:47 UTC 版)
左近衛権少将・花山院忠長はある時、後陽成天皇の寵愛深い広橋局(武家伝奏・大納言広橋兼勝の娘)に懸想した。そこで宮中深くまで出入りを許されていた歯科医の兼康備後(妹の命婦讃岐も宮中に仕えていた)に仲介を頼んで文通を始め、それをきっかけとして2人で逢瀬を重ねていた。その話を漏れ聞いた猪熊は俄然興味を持ち、かねてから懇意の飛鳥井雅賢をはじめ、言葉巧みに他の公卿・女官をも誘い出し、様々な場所で乱交を重ねることとなった。 しかし、このように大人数の乱行が発覚しないわけはずもなかった。飛鳥井には恨みを含む女性がいた。当時、賀茂氏の流れである松下家(上北面で従五位下に上る地下家)が家業としている蹴鞠で飛鳥井家をしのぎ、蹴鞠の許状などを松下家でも発行していた。荘園収入がほぼ途絶え、家業が大きな収入源となる時代であり、飛鳥井家では松下家の蹴鞠を容認できず幕府に訴えた。裁可は慶長13年(1608年)に下り、飛鳥井家が全面的に勝った。宮中に出仕していた松下家の娘が密通していた女官たちの密談を立ち聞きし、憎き飛鳥井家の公家を陥れるため天皇に逐一言上したのだと『花山物語』は述べている。 慶長14年(1609年)7月、後陽成天皇の耳に達し、逆鱗に触れることとなる。機を見るに敏な猪熊は、露顕したことを知るや、一路九州へ逃れた。朝鮮国へ渡る心づもりだったともいう。
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