公家町の実像
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もっとも、織田政権・豊臣政権・徳川政権(江戸幕府)が公家たちを集住させることで公家町という閉鎖的な空間に閉じ込めていたというのは事実ではない。というよりも、実際には公家町に住めなかった公家が大勢いたのである。 関ヶ原の戦い直後、徳川家康は先に家康の計らいで勅勘を解かれて京都帰還を許された山科家・冷泉家・四条家の屋敷を公家町の北側に与えた。これは西軍について滅亡した大谷吉継の母(東殿)や原勝胤などの旧屋敷地を接収したものであった。これは公家町の中に既に新たな屋敷地を確保できなくなったことが背景にあったとされる(なお、これらの屋敷は慶長の公家町拡大の際に新たな区画に再移転している)。 その後、慶長年間から寛永年間にかけて公家町を拡大しているものの、それ以上に新家の創設が多かった。豊臣政権下の文禄年間から寛永年間にかけて50もの新家が創設されたものの、その2/3にあたる33家が築地之内、すなわち公家町に屋敷を持つことが出来なかった(当時の絵図からは公家町のうち御所を除いた屋敷地の7割近くが皇族・摂家・清華家・旧家で占められている)。また、公家町の内側に屋敷が持てた新家は寛永年間当時院政を行っていた後水尾上皇の院参衆などに限られた(寛永7年(1630年)に後水尾上皇の仙洞御所が完成した際に御所の南側に院の後宮や皇女の邸宅が造営されるとともに院参衆への屋敷地の拝領が行われた)。 このため、公家町に住めなかった公家は天皇や院(実際の手続は京都所司代)から屋敷地を拝領するか、他の公家が何らかの事情で屋敷地を手放さない限りは、親族の屋敷に同居するか、公家町に近い町人地で土地を購入して屋敷を建てるか、借家をするしかなかったのである。更に公家町に屋敷地を所有していても、経済的な問題から他の公家に屋敷地を売却して築地の外で借家暮らしをする公家も存在していた。特に近世になってから朝廷運営の必要上行われた新家の創設に対し、知行地や屋敷地の割り当ては遅れていた。 また、縁戚に大名がいて経済的な援助を受けられる家とこうした援助が望めず知行地からの収入が頼りの家では火災などによって屋敷が失われた時の対応に大きく差が出ており、享保年間になると、大名の縁戚を持つ公家が家格に合わない豪華な屋敷を造営して幕府が規制に乗り出す一方、築地之内に屋敷地を持つ公家が火災で焼けた屋敷の再建を諦めて町人地に住んでしまったために空洞化が進んでいる状況に対応するために幕府が空洞化した屋敷地の上地を計画するものの、公家間の売買による屋敷地の権利移転を朝廷も幕府も把握していなかったために、上地の対象地が確定できずに失敗するという事態も生じている。 幕府は公家の居住に関しては家業との関係で知行地に住まざるを得ない家は例外として、朝廷への勤仕との関連から公家町またはその周辺に居住するのが望ましいとする考えであったため、京都所司代は京都で大火が発生してその後に土地整理の問題が発生した時などに武家伝奏と相談しながら、公家町周辺にある寺院や町人の住む土地を上地して事実上の公家町への編入を行う形で公家町やその周辺に屋敷地を持たない公家に新たな屋敷地が拝領できるように動くなどの対応を取った(実際、万治4年(1661年)の火災で焼けた伏見宮家と二条家は築地の外側である今出川通の北側に移転している)。その一方で、穢れとの関係で寺院や墓地の跡地や近隣の屋敷地を望まない公家が多かったため、幕府もその主張を認めて屋敷地の変更や土の入れ替え工事の実施などを行うなどの必要があった。しかも、公家町に公家屋敷が密集し過ぎて火除地の不足や通路の狭さを招いて火災に弱いためにそれらを広げる措置にも乗り出さなければならない など解決しなければならない問題も多く、全ての公家を公家町とその周辺に集住させる方針を達成させることは出来なかった。そのため、公家町やその周辺に居住できない公家は京都市中であれば居住が認められていたが、その一方で公家屋敷は京都町奉行の管轄下ではないので事件があった時に奉行所の役人が立ち入ることが出来ず、犯罪者の捜査などに支障が生じた。また、公家の風紀の乱れを危惧する意見 や町人地が負っていた町役を公家が負うことは無かったので住民と公家の間でトラブルも生じていた(ただし、公家の家臣が代理で町役を務めた事例や金銭などの形で町役の負担を条件に町側が居住を容認した事例もある)。このため、京都所司代は元禄7年(1694年)以降、公家が町人地に居住する場合には届け出の義務を課し、続いて享保6年(1721年)には公家衆は拝領した屋敷に定住すること、拝領地・拝借地・買得地を問わず土地の交換を行う(相対替)をする場合には武家伝奏を通じて所司代の許可を得ることとする規制を課しているが、そもそもの話として土地が確保できないために公家町に公家を集住させる方針を達成できない以上、公家の町人地居住を禁止するようなそれ以上の規制は困難であった。
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