奉行所の役人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 22:35 UTC 版)
東西各奉行所に、それぞれ与力30騎、同心50人が配属。 与力は80石(知行高200石)、同心は10石3人扶持を支給され、屋敷地は与力が500坪、同心は200坪を拝領された。 与力は、新人はまず初御目見・御用日見習から始まり、当番所への勤務である「番入」を務め、与力の末席である定町廻に就く。後は年功序列で、何十年も勤め上げて最上位である諸御用調役まで昇進してゆく。 当時の大坂の武士の名鑑『浪華御役録』や『役人鑑』には与力の役職が25前後記されており、1つの役職には2 - 10人ほどの与力が担当となっている。東西奉行所の与力計60人でこれだけの数をまかなえたのは、1つには1人で複数の役職を兼務したことと、もう1つは与力の子を早くに見習身分として出仕させ実務を担当させていたからである。病欠、または囚人を江戸に護送するために大坂を長期間離れる場合、さらには御用多忙により人手が足らなくなる場合も多々あり、そのような時は仮役・定仮役という暫定的な役席を設け、他の与力に仕事を兼務させた。 それらの役職の他に、「迎方(むかえかた)与力」という臨時の役職もある。これは新任町奉行を大坂で迎えるための準備をするもので、該当奉行所の古参与力が命じられた。 江戸町奉行の役人と同様に、大坂町奉行所の与力も、大名や旗本に便宜を図るため出入り関係を結んでおり、これを「御館入(おたちいり)与力」と呼んだ。大坂の周辺に知行地を持つ大名・旗本の他、大坂に蔵屋敷を置く福岡藩などが御館入与力を出入りさせていた。また、大坂城代の元に出入りしその用を承る与力を、「立入(たちいり)与力」という。
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