奉行所の支援拒否と餓死者、自殺者
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「天明の打ちこわし」の記事における「奉行所の支援拒否と餓死者、自殺者」の解説
江戸の米価は天明7年(1787年)4月から5月にかけて更に急騰した。天明5年(1785年)には百文で1升1合買えた白米が、天明7年(1787年)5月初旬には百文で4.5合、そして5月17日には3合にまで暴騰した。たまりかねた人々は天明7年5月10日(1787年6月25日)頃から連日町奉行所前に押しかけ、お救い願いを出すようになった。しかし天明7年5月11日(1787年6月26日)には、月番の北町奉行曲淵景漸からは「何とか食いつなぐように」との趣旨と考えられる通達が出された。 5月半ば過ぎになると米の価格急騰によって多くの搗米屋は休業に追い込まれていった。米の入手が不可能となっていく中、生活に困窮した人々を数多く抱えた江戸の各町は、奉行所へのお救い願いを行おうとしたが、町名主や町年寄の自粛要請がなされ嘆願には至らなかったケースもあった。しかし奉行所に対するお救い願いは五月雨式に行われ続けた。町奉行所は天明7年5月18日(1787年7月3日)、南北の年番名主からのお救い願いを却下し、天明7年5月20日(1787年7月5日)には神田鍋町など四町から出された嘆願に対しては、「精を入れて稼ぎ、何とか食いつなぐよう」申し渡したのみであり、人々の必死の嘆願に対して真摯な対応を見せようとしなかった。 天明7年5月19日(1787年7月4日)、町奉行所は問屋や仲買に対して大豆の値段を下げるように指示し、人々に対しては食糧に適した大豆を主食とすることを薦める町触を出し、更に5月21日から本船町、伊勢町、小舟町の米の仲買商から米の購入が出来るようにするとの通達を出した。しかしこの通達には大きな問題があった。米の販売価格を異常に高騰した時価のままで行うとしたのである。これでは米価の異常高騰に苦しむ人々に対する支援にはならず、奉行所に対する批判が高まるだけの結果を招いた。天明7年5月20日(1787年7月5日)には町奉行所は米の売り惜しみを行う商人たちへの立ち入り調査も行ったが全く不十分な調査に終わり、町奉行所を始めとする公儀への不信は決定的なものとなった。 米の価格急騰に伴う生活苦によって極度の困窮状態に追い込まれた人々にとって、町奉行からの積極的な支援拒否は最後の望みの綱を絶たれたも同然であった。既に天明期の物価高騰によって都市貧民の生活は追い詰められており、家賃未払いにより借家を追い立てられ、更に米価高騰により食糧の入手も困難となった貧民たちの中から、餓死者、そして自殺者が現れだしていた。「内外国事記」によれば、天明7年5月15日(1787年6月30日)過ぎから、隅田川にかかる両国橋、永代橋、新大橋などから身を投げる人が急増したため、身投げを行う人が出ないよう橋番人が増強され監視を強化した。すると今度は隅田川などの渡船から身を投げる人が続出したため、天明7年5月18日(1787年7月3日)以降、渡船の運行が中止された。実際に餓死、自殺に追い詰められた人々の他にも、困窮のため餓死や自殺の一歩手前にまで追い込まれた人々は数多く、自らの生命の危機を感じた人々は打ちこわしに立ち上がることになった。 そして多くの江戸町民が危機に追いやられているのにも関わらず、人々のお救い願いに対して真摯に対応せず、効果的な救援策に乗り出そうとしない町奉行所に対して、真偽不明の風説が急速に広まっていった。お救い願いに対し北町奉行の曲淵景漸が「犬を食え」、「猫を食え」と放言したとか、「町人は米を食うものではない、米が無ければ何でも食うが良い」と叱りつけたとされた。また大豆食を奨励した奉行所の町触に対して「大豆食を実践すれば疫病や脚気になる。人々が皆死んでも構わないのだろう」とのデマも広がった。このような風説やデマの流布は江戸町民の感情を更に逆撫ですることとなり、天明7年5月20日(1787年7月5日)夕刻、大規模な打ちこわしが勃発することになった。
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