事件の勃発
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生麦村住人の届け出書と神奈川奉行所の役人の覚書、そして当時イギリス公使館の通訳見習だったアーネスト・サトウの日記を突き合わせると、ほとんど以下のような経緯を辿った。 行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、イギリス人たちは、「わきを通れ」と言われただけだと思いこんだ。しかし、行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、結局4人はどんどん行列の中を逆行して進んだ。鉄砲隊も突っ切り、ついに久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの声に、さすがにどうもまずいとは気づいたらしい。しかし、あくまでも下馬する発想はなく、今度は「引き返せ」と言われたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動いた。その時、数人が殺しにかかった。 4人は驚いて逃げようとしたが時すでに遅く、リチャードソンは深手を負い、桐屋という料理屋の前から200メートルほど先で落馬し、とどめを刺された。マーシャルとクラークも深手を負い、ボロデール夫人に「あなたを助けることができないから、ただ馬を飛ばして逃げなさい」と叫んだ。ボロデール夫人も一撃を受けていたが、帽子と髪の一部が飛ばされただけの無傷であり、真っ先に横浜の居留地へ駆け戻り救援を訴えた。マーシャルとクラークは流血しつつも馬を飛ばし、神奈川にある当時、アメリカ領事館として使われていた本覚寺へ駆け込み助けを求め、ジェームス・カーティス・ヘボン博士の手当を受けた。 『薩藩海軍史』によれば、リチャードソンに最初の一撃をあびせたのは当番供頭・奈良原喜左衛門であり、さらに逃げる途中で鉄砲隊の久木村治休が抜き打ちに斬り上げ致命傷を与えた(久木村は同事件の回顧談を鹿児島新報紙上に詳細に語っている。)。落馬後、瀕死のリチャードソンに「今、楽にしてやっど」と介錯のつもりでとどめを刺したのは海江田信義であったという。なお、当時近習番だった松方正義の直談によれば、駕籠の中の久光は「瞑目して神色自若」であったが、松方が「外国人が行列を犯し、今これを除きつつあります」と報告すると、おもむろに大小の柄袋を脱し、自らも刀が抜けるよう準備をしたという。
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事件の勃発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 14:06 UTC 版)
英国の新公使ハリー・パークスは、この機に乗じて兵庫の早期開港と天皇からの勅許を得ることを計画した。パークスは、他の3国の合意を得、連合艦隊を兵庫に派遣し(長州征伐のため、将軍徳川家茂は大坂に滞在中であった)、幕府に圧力をかけることとした(賠償金を1/3に減額する代わり、兵庫開港を2年間前倒しすることを提案した)。 慶応元年9月13日(1865年11月1日)、キング提督を司令官とした英国4隻(プリンセス・ロイヤル、レパード、ペラロス、バウンサー)、フランス3隻(グエリエール、デュプレクス、キャンシャン)、オランダ1隻(ズートマン)の合計8隻(米国は今回は軍艦は派遣せず)からなる艦隊は、パークスに加えてフランス公使レオン・ロッシュ、オランダ公使ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックおよびアメリカ代理公使アントン・ポートマンを乗せて横浜を出港し、9月16日(11月4日)には兵庫港に到着した。 幕府は老中阿部正外および松前崇広を派遣し、9月23日(11月11日)から四カ国の公使との交渉を行わせた。四カ国は、幕府に対して「兵庫開港について速やかに許否の確答を得られない場合、条約遂行能力が幕府にはないと判断し、もはや幕府とは交渉しない。京都御所に参内して天皇と直接交渉する」と主張した。四カ国の強硬姿勢から要求を拒むことは困難と判断した阿部、松前の両老中は、2日後やむをえず無勅許で開港を許すことに決めた。翌日、大坂城に参着した一橋慶喜は、無勅許における条約調印の不可を主張するが、阿部・松前はもし諸外国が幕府を越して朝廷と交渉をはじめれば幕府は崩壊するとした自説を譲らなかった。朝廷は、阿部・松前の違勅を咎め、両名の官位を剥奪し改易の勅命を下し、9月29日(11月17日)両老中は解任されてしまった。 このため、四カ国は先の要求を再度提出し、10日以内に回答がなければ拒否とみなすとの警告を発した。10月7日(11月24日)、幕府は孝明天皇が条約の批准に同意したと、四カ国に対して回答した。開港日は当初の通り慶応3年12月7日(1868年1月1日)であり、前倒しされることはなかったが、天皇の同意を得たことは四カ国の外交上の勝利と思われた。また、同時に関税率の改定も行われ、幕府が下関戦争の賠償金300万ドルを支払うことも確認された。
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事件の勃発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 18:50 UTC 版)
1970年12月20日午前1時過ぎ、コザ市の中心街にある軍道24号線(現在の県道330号線)を横断しようとした沖縄人軍雇用員(酒気帯び)が、キャンプ桑江(CAMP LESTER)のアメリカ陸軍病院所属のアメリカ軍人(同じく酒気帯び)の運転する乗用車にはねられ、全治10日間ほどの軽傷を負う事故が発生した(第1の事故)現場には5台のMPカーと1台の琉球警察パトカーが出動、負傷者の病院搬送と現場検証、加害者の事情聴取を行った。その間、現場に隣接する中の町社交街から地元住民が集まり始めた。MPによる事故処理に対し「犯罪者である外人男を逃がすな」と不信・不満を口々に叫び騒然となったが、警察官の機転で加害者はコザ警察署(現沖縄警察署)に移送された。 事故現場に残っていた20-30人がMPに詰め寄るとMP側は空中に威嚇射撃を行ったが、これが火に油を注ぐ結果となり群衆はMPカーに放火、さらに近くにあった中之町派出所も襲撃し、投石で窓ガラスなどを破壊した。この時点で数百人規模になっていた群集は半ば暴徒と化し、公然と車道に出て、当時黄色のナンバープレートによって区別されていたアメリカ軍人・軍属の車両が走行してくると進路を妨害するなどしたため、MPおよび警察官は秩序維持のため応援部隊を要請。事故車両の移動が済んだ午前1時35分ころ、現場に女性を連れたアメリカ兵が通りかかり、群集は彼らを「外人男が日本の女に手を出すな」「あばずれ」「売女」と挑発的に煽った。MPは2人をMPカーに乗せ移動しようとしたが、群衆はMPカーを取り囲み横転させようとした。他のMP隊員の応援でMPカーはどうにか現場から脱出したが、群集は続いて他のMPカーを横転させるべく動き出した。そして午前2時10分ころ、反対車線で走路妨害にあったアメリカ兵運転の乗用車が、沖縄人運転の民間車両に追突(第2の事故)。暴徒はこれを取り囲み投石、アメリカ人運転手に暴行を加えた。またMPにも投石を始め、MPが退いた後に残ったMPカーを横転させ、火を放った。
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