事件の勃発とは? わかりやすく解説

事件の勃発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:17 UTC 版)

生麦事件」の記事における「事件の勃発」の解説

生麦村住人届け出書と神奈川奉行所役人覚書、そして当時イギリス公使館の通訳見習だったアーネスト・サトウ日記突き合わせると、ほとんど以下のような経緯辿った行列先頭方にいた薩摩藩士たちは、正面ら行列に乗り入れてきた騎乗イギリス人4人に対し身振り手振り下馬し道を譲るように説明したが、イギリス人たちは、「わきを通れと言われただけだと思いこんだ。しかし、行列はほぼ道幅いっぱい広がっていたので、結局4人はどんどん行列の中を逆行して進んだ鉄砲隊突っ切り、ついに久光乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの声に、さすがにどうもまずいとは気づいたらしい。しかし、あくまでも下馬する発想はなく、今度は「引き返せと言われたと受け取り馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動いたその時数人殺しかかった。 4人は驚いて逃げようとしたが時すでに遅くリチャードソン深手負い桐屋という料理屋の前から200メートルほど先で落馬し、とどめを刺された。マーシャルクラーク深手負い、ボロデール夫人に「あなたを助けることができないから、ただ馬を飛ばして逃げなさい」と叫んだ。ボロデール夫人一撃受けていたが、帽子と髪の一部飛ばされただけの無傷であり、真っ先横浜居留地駆け戻り救援訴えたマーシャルクラーク流血しつつも馬を飛ばし神奈川にある当時アメリカ領事館として使われていた本覚寺駆け込み助け求めジェームス・カーティス・ヘボン博士の手当を受けた。 『薩藩海軍史によればリチャードソン最初一撃をあびせたのは当番供頭奈良原喜左衛門であり、さらに逃げ途中で鉄砲隊久木治休が抜き打ち斬り上げ致命傷与えた久木同事件の回顧談鹿児島新報紙上詳細に語っている。)。落馬後、瀕死リチャードソンに「今、楽にしてやっど」と介錯のつもりでとどめを刺したのは海江田信義であったという。なお、当時近習番だった松方正義直談によれば駕籠の中の久光は「瞑目して神色自若であったが、松方が「外国人が行列を犯し、今これを除きつつあります」と報告すると、おもむろに大小柄袋脱し、自らも刀が抜けるよう準備をしたという。

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事件の勃発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/18 14:06 UTC 版)

兵庫開港要求事件」の記事における「事件の勃発」の解説

英国の新公使ハリー・パークスは、この機に乗じて兵庫早期開港天皇からの勅許を得ることを計画したパークスは、他の3国の合意を得、連合艦隊兵庫派遣し長州征伐のため、将軍徳川家茂大坂滞在であった)、幕府圧力をかけることとした(賠償金を1/3に減額する代わり兵庫開港2年前倒しすることを提案した)。 慶応元年9月13日1865年11月1日)、キング提督司令官とした英国4隻(プリンセス・ロイヤルレパード、ペラロス、バウンサー)、フランス3隻(グエリエール、デュプレクス、キャンシャン)、オランダ1隻(ズートマン)の合計8隻(米国今回軍艦派遣せず)からなる艦隊は、パークス加えてフランス公使レオン・ロッシュオランダ公使ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックおよびアメリカ代理公使アントン・ポートマン乗せて横浜出港し9月16日11月4日)には兵庫港到着した幕府老中阿部正外および松前崇広派遣し9月23日11月11日)から四カ国の公使との交渉を行わせた。四カ国は、幕府に対して兵庫開港について速やかに許否確答得られない場合条約遂行能力幕府にはないと判断し、もはや幕府とは交渉しない京都御所参内して天皇直接交渉する」と主張した。四カ国の強硬姿勢から要求拒むことは困難と判断した阿部松前の両老中は、2日後やむをえず勅許開港を許すことに決めた翌日大坂城参着した一橋慶喜は、無勅許における条約調印不可主張するが、阿部松前はもし諸外国幕府越して朝廷交渉をはじめれば幕府崩壊するとした自説を譲らなかった。朝廷は、阿部松前違勅咎め両名官位剥奪し改易勅命下し9月29日11月17日)両老中解任されてしまった。 このため、四カ国は先の要求再度提出し10日以内回答なければ拒否とみなすとの警告発した10月7日11月24日)、幕府孝明天皇条約の批准同意したと、四カ国に対して回答した開港日は当初通り慶応3年12月7日1868年1月1日)であり、前倒しされることはなかったが、天皇同意得たことは四カ国の外交上の勝利思われた。また、同時に関税率改定行われ幕府下関戦争賠償金300ドル支払うことも確認された。

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事件の勃発

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 18:50 UTC 版)

コザ暴動」の記事における「事件の勃発」の解説

1970年12月20日午前1時過ぎコザ市中心街にある軍道24号線現在の県道330号線)を横断しようとした沖縄人軍雇用員酒気帯び)が、キャンプ桑江CAMP LESTER)のアメリカ陸軍病院所属アメリカ軍人同じく酒気帯び)の運転する乗用車はねられ全治10日間ほどの軽傷を負う事故発生した(第1の事故現場には5台のMPカーと1台の琉球警察パトカー出動負傷者病院搬送現場検証加害者事情聴取行ったその間現場隣接する中の町社交街から地元住民集まり始めたMPによる事故処理対し犯罪者である外人男を逃がすな」と不信・不満を口々に叫び騒然となったが、警察官機転加害者コザ警察署(現沖縄警察署)に移送された。 事故現場残っていた20-30人がMP詰め寄るMP側は空中威嚇射撃行ったが、これが火に油を注ぐ結果となり群衆MPカー放火、さらに近くにあった中之町派出所襲撃し投石窓ガラスなどを破壊した。この時点数百規模になっていた群集半ば暴徒化し公然と車道出て当時黄色ナンバープレートによって区別されていたアメリカ軍人軍属車両走行してくると進路妨害するなどしたためMPおよび警察官秩序維持のため応援部隊要請事故車両移動済んだ午前1時35分ころ、現場女性連れたアメリカ兵通りかかり、群集は彼らを「外人男が日本女に手を出すな」「あばずれ」「売女」と挑発的に煽ったMP2人MPカー乗せ移動しようとしたが、群衆MPカー取り囲み横転させようとした。他のMP隊員応援MPカーはどうにか現場から脱出したが、群集続いて他のMPカー横転させるべく動き出した。そして午前2時10分ころ、反対車線走路妨害にあったアメリカ兵運転の乗用車が、沖縄人運転の民間車両追突(第2の事故)。暴徒はこれを取り囲み投石アメリカ人運転手暴行加えた。またMPにも投石始めMP退いた後に残ったMPカー横転させ、火を放った

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