歴史的な影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 06:11 UTC 版)
ロシア革命後、1917年11月にソビエト政権が誕生した後、この協約を廃棄したものの、北満州と外蒙古における権益を手放すことがなかった。1921年にソ連軍がモンゴル民族独立を旗印に掲げていたモンゴル人民革命党を支援し、外蒙古にいた中国北洋政府の駐留軍を追い出したことと、1929年に勃発した中東路事件という二つの出来事はソ連が依然としてこの地域における勢力維持を続けていたと見られているものであった。その一方、日露戦争の敗北でソ連にとっては、満州地方と内蒙古における日本の権益も触れられてはいけない存在になっていたので、日露戦争後の40年の間にソ連は極東地域に於いて、日本との勢力バランス維持に努めていた。満州事変後、日本の支配勢力は満州全域に広がっている状況下で、ソ連として残された利権は北満鉄道の所有権だけであった。その為、1935年にソ連はその管轄下の北満鉄道を満州国へ売却したことで満州から撤退したが、外蒙古における権益をそのまま保持していた。1939年にノモンハン事件の勃発で、ソ連はこれを自分の「縄張り」とする外蒙古が日本から侵食されようとすると見て、日本と四カ月にわたる軍事衝突を行ったが、停戦二年後に調印された日ソ中立条約は日ソ両国間の満州、モンゴル(内蒙古と外蒙古)における双方のそれぞれの権益を再確認し、1945年2月のヤルタ会談で確認されたモンゴル人民共和国とする国家地位に対する国際認可のきっかけにもなった。「日露協約」も最終的にモンゴル全土(内蒙古と外蒙古)の完全分離につながった遠因だとしている。
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