事件影響と日中関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 05:43 UTC 版)
寛城子事件の勃発により鄭家屯事件に続き中国兵が日本兵に勝ったとする見解が中国人を支配するようになれば、弱者に対して最も強い中国人気質が破裂して日中国交を阻害することになるとの懸念が生じるようになった。帝国議会においては杉本誠三によって原敬首相に質問主意書が提出され政府の姿勢が追及された。 北京政府は外交次長を日本公使館に派遣し小幡酉吉公使に陳謝の意を表して事の真相を調査の上で解決の方法を約すとした。また、事件の責任者である高俊峯旅長を罷免することとしたが、高俊峯旅長は命に服さず挑戦的な態度を示し馬賊になることなどを示唆するにいたった。 事件翌年の1920年には満州(沿海州)の日本海に面するニコラエフスクで赤軍と中国軍によって駐留日本軍が殲滅されると、領事一家以下在留邦人300名以上が惨殺され、ニコラエフスク住民6,000名余りが虐殺される尼港事件が引き起こされた。 1928年には張作霖が爆殺されるなどし、1932年には関東軍の助けを借りた宣統帝によって満州帝国が建国されることとなる。
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