事件後に自殺した軍関係者(決起者以外)
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「二・二六事件」の記事における「事件後に自殺した軍関係者(決起者以外)」の解説
1936年(昭和11年)2月29日朝、近衛輜重兵大隊の青島健吉輜重兵中尉が自宅にて、軍刀で腹一文字に切腹し喉を突いて自死しているのが発見された。妻も後を追って、腰に毛布を巻いて日本刀で喉を突き、一緒に自刃していた。 2月29日朝、歩兵第1連隊の岡沢兼吉軍曹が麻布区市兵衛町の民家の土間で拳銃自殺。 3月2日、東京憲兵隊麹町憲兵分隊の田辺正三憲兵上等兵が、同分隊内で拳銃自殺。 3月16日、電信第1連隊の稲葉五郎軍曹が、同連隊内で騎銃で胸部を撃った。 10月18日、三月事件や十月事件にも関与した田中彌歩兵大尉(陸士第33期首席)が世田谷の自宅で拳銃自殺した。遺書はなく、翌10月19日「二・二六事件に関連し起訴中の参謀本部付陸軍歩兵大尉田中彌は10月18日正午ごろ自宅において自決せり」と陸軍省から発表された。田中大尉は「帝都における決行を援け、昭和維新に邁進する方針なり」と各方面に打電し、橋本欣五郎、石原莞爾、満井佐吉らの帝国ホテルでの画策にも係わっていた。田中大尉は十月事件以来、橋本欣五郎の腹心の一人であった事件の起こる直前に全国の同志に向かって決起要請の電報を発送しようとしたが、中央郵便局で怪しまれて、大量の電報が差し押さえられた。その事実が裁判で明るみに出そうになったので、田中大尉は一切の責任を自分一人で負って自殺し、その背後関係は闇に葬られた。 歩兵第61連隊中隊長であった大岸頼好大尉は直接事件に関係ないにもかかわらず、その指導力を恐れられて、予備役に編入された。部下の小隊長をしていた後宮二郎少尉(陸士第48期)は、父である陸軍省人事局長後宮淳少将(のち大将)が下したその処分を不当として、自殺した[信頼性要検証]。なお、同少尉の自殺動機については、死亡前日の式典での軍人勅諭奉読中に読み間違いをし、歩兵第61聯隊内で拳銃自殺したとの説もあり、現在でも真相は不明である。
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