背後関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 02:30 UTC 版)
「フランソワ・ダルラン」の記事における「背後関係」の解説
ラ・シャペルの単独犯行には数々の疑問が呈されている。 アンリ・ダスティエの子でフランソワ・ダスティエ将軍の甥に当たるジャン=ベルナール・ダスティエ(Jean-Bernard D'Astier de la Vigerie)は自著『誰がダルランを殺したか?』の中で、アンリ・ダスティエとパリ伯アンリが会談したことを記し、会談に同席したアンリ・ダスティエの妻ルイズはパリ伯が「ダルラン提督を排除せねばならない、彼を消さねばならない」と語るのを聞いたと述懐している。パリ伯自身はこの会談の存在を否定している。一方、ド・ゴールの側近で後に政敵となったジャック・スーステル(英語版)は、アルジェのド・ゴール派とパリ伯によるダルラン退陣要求計画があったとしている。ジロー大将は事件後、「米国人たちは、ダルラン暗殺がド・ゴールのために協力した英諜報機関によるものだと確信していた。(中略)今ではパリ伯とド・ゴールの共謀があり、目的はパリ伯の復権にあったと確信している」と語り、当時はそのような見方がアメリカ側に抱かれていたことを証言している。ジローはド・ゴール派の関係者を数名逮捕したが、カサブランカ会談から帰国した後に「ダルラン暗殺事件の真相究明は英米に仏国内部の陰謀行為を示すことになり、英米の信頼を失うということにド・ゴールと合意した」語り、「調査の目的は果たされ、英米も満足している」として容疑者を全員釈放している。当時捜査に当たっていたアルベール=ジャン・ヴォワチュリエ少佐(Albert-Jean Voituriez)はこの政治的決定に抗議して辞任し、1980年の著書で「パリ伯とド・ゴールを訴追できるだけの起訴理由が存在する」と語っている。。 イギリスの歴史家、デイヴィッド・レイノルズは、著書の「In Command of History」において、戦中にロンドンを離れることがなかったイギリス秘密情報部(SIS)長官スチュワート・メンジーズが暗殺当時アルジェに滞在していたことを指摘し、ラ・シャペルとイギリス特殊作戦執行部(Special Operations Executive, SOE)が関係していたと推測している。アウステルリッツの戦いの戦勝記念祭の際に、アイゼンハワーに対して名誉中隊としてイギリス近衛機甲師団のグレナディアガーズとコールドストリームガーズ両連隊から200名を提供してくれるよう依頼していた。このことでダルランは尊大であるとして連合国に嫌われていたとしている。
※この「背後関係」の解説は、「フランソワ・ダルラン」の解説の一部です。
「背後関係」を含む「フランソワ・ダルラン」の記事については、「フランソワ・ダルラン」の概要を参照ください。
- 背後関係のページへのリンク