東声会設立
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曺寧柱と出逢った事が契機となり、「大アジア主義」の思想を信奉する様になった町井は、1947年(昭和22年)に東京・銀座で町井一家を母体として「東洋の声に耳を傾ける」と云う理念のもとに東声会を結成した。これは在日朝鮮人連盟(現・朝鮮総連)を牽制する狙いがあったとされる。なお、大韓民国建国後に韓国国籍を取得したが日本に住み続けた。 その後の東声会は、東京のみならず横浜、藤沢、平塚、千葉、川口、高崎などに支部を置いた。構成員は1,600人となったが、急速な勢力拡大により、他のヤクザ団体が結束し、東声会は四面楚歌の状態に陥った。さらに、警察の集中的な取り締まりを受け東声会幹部が多数逮捕される状況に陥った。このため1963年(昭和38年)、児玉誉士夫の取り持ちで、三代目山口組組長・田岡一雄の舎弟となった。 同年11月9日午後6時9分ごろ、東京会館の前の路上で、東声会組員・木下陸男が、東京会館で行われた出版記念祝賀会から帰る途中だった田中清玄を銃撃した。警察は背後関係を疑い、町井を銃砲刀剣類所持等取締法で別件逮捕したが、背後関係までは立件できなかった。結局、町井は起訴されなかった(田中清玄銃撃事件)。 1964年(昭和39年)2月、警視庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(「第一次頂上作戦」)を開始した。町井の東声会は、警察庁により広域10大暴力団に指定された。10大暴力団は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会、東京・住吉会、東京・日本国粋会、東京・東声会、川崎・日本義人党、東京・北星会だった。 警察の圧力の強まる中、1966年(昭和41年)9月1日、町井は東声会の解散声明を発表した。その一週間後、東京の池上本門寺で解散式が行われた。こうして町井はヤクザ社会の表舞台から去った。
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