東声会解散後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 15:29 UTC 版)
1967年(昭和42年)4月、町井は東声会を、企業色を前面に押し出した形で「東亜友愛事業協同組合」として再建し、自らは名誉会長となった。町井はこの東亜友愛事業協同組合に資金提供を行っており、人事権も握っていた、と云われる。なお、関東会も関東二十日会として復活した。間もなく、「東亜友愛事業協同組合」は「東亜友愛事業組合」と改称された。 その後、町井は東亜相互企業株式会社を設立した。会長には児玉誉士夫が就いた。東亜相互企業株式会社は、銀座で料亭「秘苑」を営業した。1968年(昭和43年)、韓国より国民勲章・冬栢章を受勲した。翌年釜関フェリー株式会社を設立し、就航させた。1971年(昭和46年)には、在日本大韓民国民団中央本部顧問に就任した。 1973年(昭和48年)7月、東亜相互企業株式会社は、六本木にTSK・CCCターミナルビルをオープンさせた。この資金源については、韓国外換銀行東京支店が、東亜相互企業株式会社に、支払い保証約60億円の信用供与を与えた。東亜相互企業株式会社は、60億円の支払い保証に基づいて、日本不動産銀行から54億円の融資を受けた。東亜相互企業株式会社は、33億円を那須高原・白河高原の総合開発事業につぎ込み、21億円をTSK・CCCターミナルビル建設につぎ込んだ。なおTSK・CCCターミナルビルは、町井が暴力団活動などの非合法活動から決別し、「表の社会の成功者」として振る舞うことを演出することを主な目的として建設されたこともあり、東声会の構成員は、TSK・CCCターミナルビルのオフィス棟に置かれていた東亜相互企業とそのグループ企業のオフィスに出入りすることが固く禁じられていた。 しかし、白河高原の開発をめぐって、1976年(昭和51年)7月5日、東亜相互企業の黒沢勝利ら3人が、福島県知事・木村守江に対する500万円の贈賄容疑で逮捕された。同年8月6日、木村守江が収賄容疑で福島地方検察庁に逮捕された。町井も任意で取調べを受けた。結局、1977年(昭和52年)6月、東亜相互企業は不渡りを出して倒産した。これ以降、町井はほとんど人前に出なくなり、TSK・CCCターミナルビル近くの自宅マンションに引きこもる日々が続いた。
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