活動など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:38 UTC 版)
物心がついた頃には、父はすでに病床に伏しており、音楽については兄の一次から教わったという。1933年には最初の歌曲を書いている。1935年には、映画『別れの曲』の影響でショパンに心酔しピアニストを志望するようになる。 青山学院中学部を経て1940年、東京音楽学校(現:東京芸術大学)予科に入学、翌年に本科器楽部ピアノ専攻に進学し、田中規矩士と豊増昇にピアノを、橋本國彦に作曲を師事。戦時(太平洋戦争)のため1943年9月に繰り上げ卒業。同年10月に特別操縦見習士官(第1期)となり宇都宮陸軍飛行学校に入校、帝国陸軍航空部隊の戦闘機操縦者となる。陸軍少尉に任官し、四式戦闘機「疾風」を装備する飛行第51戦隊附としてフィリピン戦線やインドネシアに赴き、本土で特攻隊要員として終戦を迎えた。 ジャズピアニスト志望であったが、手が小さいことから断念し、終戦後の1946年には作曲家グループ「新声会」に入会。歌曲の伴奏を務めるかたわら、作曲家としての活動を本格的に開始する。NHK「ラジオ歌謡」や「歌のおばさん」、「えり子とともに」などラジオ番組にも積極的にかかわり、これらの番組において「夏の思い出」や「かわいいかくれんぼ」「雪の降るまちを」などを生み出している。 1953年にはフェリス女学院短期大学音楽科講師に就任し、その後40年にわたって教職を勤め上げた。在職中、教え子であった幸子と出会い結婚。同校とのかかわりの中で生まれたものに、プロ合唱団「フェリス女声合唱団」(のちの日本女声合唱団)のために書いた多くの女声合唱曲や、著書『実用和声学』(音楽之友社)がある。1988年からは神戸山手女子短期大学でも教えた。 1955年に大中恩、磯部俶、宇賀神光利、中田一次と「ろばの会」を結成。この会は中田が亡くなる2000年まで活動を続け、数多くの童謡のレコード・楽譜を世に送った。また、1956年には「蜂の会」に参加し、ここで歌曲「サルビア」「おかあさん」などを発表。1969年に設立された日本童謡協会がサトウハチローによって派閥分裂すると、のちに会長となって童謡を排斥。対立ジャンルとして立ち上げた「新しい子どもの歌」を推して、最盛期にあった童謡を衰退に導いた。 一方で、晩年は自らの作品のみならず、古くからの名曲の普及にも尽力するようになった。 2000年5月3日に亡くなるまでに書かれた作品は3000近くといわれている。その全貌はまだ明らかになっていない。校歌や社歌・自治体のための歌も少なくない。
※この「活動など」の解説は、「中田喜直」の解説の一部です。
「活動など」を含む「中田喜直」の記事については、「中田喜直」の概要を参照ください。
活動など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 00:02 UTC 版)
国内で最も多くの遺族が支援する団体として日本政府からの支援を受けている。なお思想上、もしくは信仰上の相違を持つ遺族の一部は別団体「平和遺族会」を結成している。 1953年以来、政府は日本遺族会に対する国有財産無償貸付法によって九段会館(旧称「軍人会館」。遺族会本部でもある)をレストランや結婚式場ごと無償で遺族会に貸し出してきた(九段会館は東日本大震災の影響で2011年4月に廃業。事務局は現在も同会館建物内が所在地)。 1965年、日本仏教文化協会と「太平洋戦没者慰霊団派遣委員会」を設立。サイパン島、トラック島、ペリリュー島、アンガウル島、グアム島へ民間慰霊団を派遣。 1979年、「国家のために父を捧げた遺児」のための記念施設の建設を政府に働きかけ始めた。厚生省は遺族会の要望を支持し、1985年7月に厚生大臣の私的諮問機関として「戦没者遺児記念館に関する懇談会」を発足させた。1992年8月には基本計画を策定し、翌1993年度の政府予算に計上する過程で、「戦没者追悼平和記念館」と改称し、国会の委員会審議において公表された。その後昭和館として建設され、運営を受託している。 遺族会は靖国神社など特定の宗教団体と密接な関係があるとされ、“靖国神社に代わる戦没者追悼国立施設の設置”には反対の立場を取っていたが、昭和天皇が靖国神社参拝を中止した理由がA級戦犯の合祀とされる富田メモが2007年に見つかったため、分祀の検討を当時会長であった古賀誠が講演で述べた。 現在の遺族会は靖国神社問題を解決する手段として戦没者追悼国立施設の設立を積極的に要求しており、2007年自由民主党総裁選挙でも、戦没者追悼国立施設の設置を発案者である福田康夫支持を表明した。 傘下に政治団体日本遺族政治連盟を持つ。自民党を支持しつつ、また自民党中枢の人物からも支援されており、1993年から1995年にかけて会長を歴任した橋本龍太郎は、遺族会が記念施設の建設を要望した1979年当時の厚生大臣でもあった。1955年以来、組織内候補を参議院議員通常選挙に立て、かつ当選させて来たが、会員の高齢化を理由として、2013年夏の第23回参議院議員通常選挙は組織内候補を擁立せず、比例代表で自民党の公認候補を支援するとした。当時会長の尾辻秀久は比例区候補の党内の年齢規定に抵触するということで比例区から地方区(鹿児島県選挙区)に転出した。2016年夏の第24回参議院議員通常選挙では改選組織内議員の水落敏栄が年齢規定に抵触していたものの、自民党は遺族会員の高齢化を考慮し特例で比例出馬を認め再選した。水落は高齢を理由に2022年の第26回参議院議員通常選挙には出馬しない意向だったが、遺族会が擁立を進めていた別の候補者が出馬を辞退したため、引退を撤回した。投開票の結果、水落は前回選から得票を3万票余りも減らし落選した。
※この「活動など」の解説は、「日本遺族会」の解説の一部です。
「活動など」を含む「日本遺族会」の記事については、「日本遺族会」の概要を参照ください。
活動など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 09:14 UTC 版)
2011年7月8日、新宿ロフトプラスワンにて開催の『超人ロック』ファンイベント「超人ロック SPECIAL NIGHT 2011」にゲスト出演。 2015年8月3日、赤松健がGYAO!とJコミックテラスを設立し、記者会見が行われ、そこで赤松の事業に賛同する漫画家の1人として佐藤の応援メッセージが発表された。 2016年3月20日、東京都立川市子ども未来センターにて、立川まんがぱーくのオープン3周年記念イベント「立川まんがぱーくまつり」を開催。イベントのトークショーに佐藤が出演。
※この「活動など」の解説は、「佐藤マコト」の解説の一部です。
「活動など」を含む「佐藤マコト」の記事については、「佐藤マコト」の概要を参照ください。
活動など
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 06:38 UTC 版)
2004年9月に『電撃hp SPECIAL』2004 AUTUMN掲載『うさぎホームシック』(『わたしたちの田村くん』第1話)で小説デビュー。また、同月に美少女ゲーム『Noel』(フライングシャイン)のシナリオも手掛けた。 『このライトノベルがすごい!』で行われている「作品(シリーズ)部門ランキング」において、2007年度6位、2008年度4位、2009年度2位にランクイン。2007年にはライトノベルアワードでラブコメ部門賞を受賞している。 『とらドラ!』で初のアニメ化を果たしている。4巻の時期にアニメ化の話があり、これにともない全体的な構成を考え10巻程度のプロット製作と本稿を進めていた。6巻脱稿後に編集との話し合いにより、第3稿までへと複数回書き直しを行うなどの原作10巻で脱稿後の製作裏舞台が著者インタビューにて語られている。 『電撃文庫MAGAZINE』ではエッセイを寄稿している。自身のホームページやTwitterなどは存在しないため、彼女の近況を知ることが出来る数少ない企画である。
※この「活動など」の解説は、「竹宮ゆゆこ」の解説の一部です。
「活動など」を含む「竹宮ゆゆこ」の記事については、「竹宮ゆゆこ」の概要を参照ください。
- 活動などのページへのリンク