活動についての批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 13:44 UTC 版)
近藤は、漫画の内容をめぐって、少なくとも3回、憲兵隊に連行・勾留されている。判明している最初の例は『九州日報』における軍事予算の膨大化を風刺する漫画で、上半身が完全重装備、下半身がふんどしだけの裸の人物が、重みでふらついている、というものであった。 『読売新聞』では、やはり軍事費増大の風刺で、やせた裸の「国民」が、泣きながら重い武器を背負って針の山を登る漫画および、外交のため上海に渡った陸軍大臣・林銑十郎が虎を土産として持って帰る様子を描くことで、同時期に流行した「上海コレラ」を連想させる漫画(※コレラは漢字で「虎列剌」など虎の字を当てたことにちなむ)によって本部に連行された。 いずれも、処分は免れている。「卑屈なぐらい平謝まりに謝まった」ことで釈放されたのだという。のちに近藤は峯島正行に対して、「おろかなものを相手のときは、こっちもおろかになることが一番いいんだよ」とこの思い出を語っている。 近藤は戦後にも、雑誌に掲載された作品をGHQによって検閲された結果、SUPPRESS(=出版差止め)の処分を下されている。判明している例に、『漫画』1946年(昭和21年)1月号に寄稿した「あなたまかせの民主ステップ」と題する漫画(体の大きな進駐軍兵士が、体の小さな和装の女性を振り回すようにして、無理にダンスの相手をさせている内容)、『食と生活』同年7月号の「飢餓物語」(食糧不足に苦しむ民衆を描いた連作)がある。 近藤は戦中・戦後の活動について、石子順造、櫻本富雄、梶井純らから「主義主張を完全に翻した態度は、転向である」「漫画家にも戦争責任があるが、未総括である」として批判を受けた。近藤に擁護的な評伝を出版した峯島も、「漫画界の代表的人物であり、雑誌『漫画』という公器の責任者であったから、戦争の責任は全くないとはいえまい」と断じている。ただし峯島は近藤の評価に大きく関わる『漫画』のイメージをなした要素として、創刊号巻頭であまりに体制におもねった漫画と漫文を寄稿した加藤悦郎の印象の強さと、経営難・紙不足につけ込んだ菅生や翼賛会宣伝部の久富達夫、川本信正の影響を示唆している。 戦後、近藤は戦中の自身の行動について責任を感じていたとみられ、たびたび弁明を書いたり、発言したりしている。『漫画』昭和21年2月号における徳田球一との対談では、「政府の宣伝にうまうまと乗ったことが一つ、もう一つは、そういったものを描くよりほか私の家族が生きる術がなかった、ということが一つ。この錯覚と功利の上に立って、毎日毎日戦争に協力していた戦犯漫画家なんですよ」と発言している。1946年末に戦犯容疑者が逮捕されだした頃には、塩田英二郎に向かって「俺は戦犯になるだろうか、どうせ巣鴨の拘置所に入るなら、梨本宮の隣りあたりに入りたいな」と言ったという。死後発見された自叙伝草稿には「すう勢に流された物書き」「すう勢が悪しきすう勢だとすれば、悪さに添ったものを書き、人々にいくばくの影響を与えたという意味で有罪だろう」と書き残している。 『安保がわかる』を出版した近藤は「体制派漫画家」として学生運動家などから非難を浴びる[要出典]など、「さまざまな誹謗中傷の的」となった。杉浦幸雄によると、この際に近藤は「陸上の長距離競走で、一周遅れの選手をトップと見間違えることがあるだろう。世の中には、ラストを走っているのにトップと勘違いして、ギャーギャーわめくのがいるんだよ」と真意のはっきりしない軽口を叩き、意に介さないポーズを見せたという。
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