戦犯に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/30 08:42 UTC 版)
1868年9月、仙台藩は降伏し、戦争は敗北に終わった。磐渓は中里村の大槻宗家で逮捕され、仙台へ護送され、翌1869年4月に監獄入りとなった。この間、一度の尋問も罪状の申し渡しも無かった。後に明らかとなる罪状は、以下のようなものであった。 仙台藩から朝廷への建白書の執筆 奥羽越列藩同盟盟約書の執筆 輪王寺宮令旨の執筆 プロシア国領事宛書簡の執筆 戦後の仙台藩は新政府から勤王派と評価されたかつての倒幕派が中枢を占め、戦争を主導した佐幕派への報復的戦後処理が行われた。この戦後処理で伊達家は存続が許されたものの、主戦派の指導者、但木土佐・玉虫左太夫ら磐渓の教え子は斬首刑に処せられた。仙台藩の戦後処理に当たった議事局議長桜田良佐は、藩の学問主導を巡り大槻家と激しい敵対関係にあった。良佐の父・桜田欽斎は、大槻平泉と養賢堂の主導権を巡り敗れた人物で、良佐はその仇を磐渓に報ずることを公言していた。 磐渓もまた斬首刑者のリストに入っていたが、高名な漢学者であり、さらに老体であることなどから終身禁固の刑となった。1870年元旦には病を理由に仮出獄を許されるが、これは磐渓を先生扱いしていた牢の医師・同室者・獄吏らとの謀りごとであり、本人はいたって健康、出獄当日には大酒を飲んだという。1871年4月24日には謹慎も解かれ、晴れて白日の身となった。なお、政府から初めての尋問があり、これに答弁書を出したのは4月29日のことで、入獄から2年後のこのときになって初めて自分の罪状を知った。 5月には東京に移住した。その後陸軍軍医監から出仕を勧められたが、「亡国の臣何の面目あって朝班に就くべき」としてこれを固辞した。
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