大槻家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/30 08:42 UTC 版)
大槻玄沢以後、大槻家は優れた学者を何人も輩出し、「西に頼氏あり、東に大槻氏あり」と称された。実際、仙台藩の学業は、養賢堂をはじめ大槻家の人材が多く担っている。また、特に有名な大槻玄沢・大槻磐渓・大槻文彦の3代は、「大槻三賢人」と呼ばれた。 玄沢の叔父・清慶の家系が一関の大槻宗家にあたり、さらにそこから仙台藩の職を歴任した大槻平泉の仙台分家、玄沢ら江戸に常駐した江戸分家に分かれた。 大槻玄沢 父。蘭学者。杉田玄白・前野良沢の弟子。蘭学興隆期の総帥格で、青年期の磐渓は「玄沢の息子」としても知られた存在であった。玄沢はロシアに漂流し帰還した大黒屋光太夫と交流があり、またニコライ・レザノフの遣日使節で、帰国した津太夫一行によるロシア情勢を伝えた『環海異聞』などの著作があり、これが後に磐渓の新露開国論に影響したと推測される。 大槻如電・大槻文彦 長男は夭折したが、次男如電は様々な方面に才能を発揮するタイプで、博学家として多くの著作を残した。三男の文彦は言語学者として知られ、1つのことを地道にやり遂げる性格で、後に生涯をかけ日本初の国語辞書たる『言海』を編纂した。 兄弟2人とも、投獄後の父・磐渓の名誉回復にも奔走した。 大槻平泉・大槻習斎 同じ大槻一門。藩職を担った仙台大槻家。平泉は長く仙台藩の藩校・養賢堂の学頭を務め、玄沢の勧めにより蘭学の教育も導入するなど、藩校の近代化に尽力した。その息子の習斎も、学頭を務めている。 子孫 孫の幸(さち)は中村勝麻呂に嫁ぎ、曾孫に中野好夫の後妻となった静(しず)、その弟にお茶の水女子大学名誉教授で英国憲政史の中村英勝がいる。中村妙子は義母の幸が語る言葉や時代の様子が歴史そのものであったとしている。
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