戦災被害とその後の変遷
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「文昭院霊廟」の記事における「戦災被害とその後の変遷」の解説
霊廟は1945年3月10日に空襲に遭い、旧国宝指定物件の21棟のうち、奥院宝塔と奥院中門を除く19棟、附指定の15棟のうち宝塔3基を除く12棟、銅燈籠138基のうち43基が焼失した。これら焼失物件は、1949年10月13日の官報告示で正式に指定解除された。 焼け残った奥院宝塔及び奥院中門と、附指定の慎徳院宝塔、静寛院宮宝塔、昭徳院宝塔、銅燈籠95基は1950年の文化財保護法施行後は重要文化財となった。また、以下の5基の宝塔は、文昭院霊廟の隣接地にあったもので、元は崇源院(秀忠夫人)霊牌所の附(つけたり)指定であったが、同霊牌所の戦災焼失後は文昭院霊廟の「附」という扱いになった。 崇源院(徳川秀忠夫人)宝塔(石造) 天英院(徳川家宣夫人)宝塔(石造) 広大院(徳川家斉夫人)宝塔(石造) 桂昌院(徳川綱吉母)宝塔(銅造) 月光院(徳川家継母)宝塔(石造) 戦災焼失をまぬがれた銅燈籠95基は原位置から移動したため、1957年7月24日付けで重要文化財の指定を解除された。同じく戦災焼失をまぬがれた奥院宝塔及び奥院中門と、附指定の宝塔8基(慎徳院、静寛院宮、昭徳院、崇源院、天英院、広大院、桂昌院、月光院)は、墓地の改葬に伴い、1958年5月14日付けで重要文化財の指定を解除された。以上により、文昭院霊廟関係の重要文化財はすべて指定解除されている。 徳川家霊廟に埋葬されていた徳川将軍、夫人、側室らの遺骨は1958年に学術調査が実施された後、桐ケ谷斎場で荼毘に付され、増上寺安国殿裏の増上寺御霊屋(徳川将軍家墓所)に改葬された。 増上寺安国殿裏の増上寺御霊屋(徳川将軍家墓所)には、旧重要文化財の宝塔8基(下記)が移設されている。また、旧文昭院霊廟奥院中門(銅製、旧重要文化財)が同墓所入口の門として転用されている。 増上寺御霊屋に移設された宝塔文昭院(徳川家宣)宝塔(銅造) - 改葬後は天英院(家宣夫人)を合葬する 崇源院(徳川秀忠夫人)宝塔(石造) - 改葬後は台徳院(秀忠)を合葬する(台徳院宝塔は木造であったため戦災で焼失) 有章院(徳川家継)宝塔(石造) 惇信院(徳川家重)宝塔(石造) 慎徳院(徳川家慶)宝塔(石造) 昭徳院(徳川家茂)宝塔(石造) 静寛院宮(徳川家茂夫人)宝塔(銅造) 月光院(徳川家継母)宝塔(石造) - 改葬後は将軍の生母・側室等の合祀塔となっている なお、桂昌院(綱吉母)宝塔(銅造)、天英院(家宣夫人)宝塔(石造)、広大院(家斉夫人)宝塔(石造)は増上寺には残っていない。
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戦災被害とその後の変遷
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「厳有院霊廟」の記事における「戦災被害とその後の変遷」の解説
霊廟は1945年3月10日に空襲に遭い、旧国宝指定物件の13棟のうち、勅額門、水盤舎、奥院宝塔、奥院唐門を除く9棟が焼失した。これら焼失物件は、1949年10月13日の官報告示で正式に指定解除された。 焼け残った勅額門、水盤舎、奥院宝塔及び奥院唐門、並びに附(つけたり)指定の浚明院宝塔及び文恭院宝塔は1950年の文化財保護法施行後は重要文化財となった。 焼け残った重要文化財指定の建造物は、1963年の官報告示で以下の2件に分割された。 厳有院霊廟勅額門及び水盤舎 2棟勅額門 水盤舎 厳有院霊廟奥院 2棟奥院宝塔 奥院唐門 附 浚明院宝塔 附 文恭院宝塔 上記のうち「勅額門及び水盤舎」は寛永寺の所有、「奥院」は個人所有である。
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戦災被害とその後の変遷
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「有章院霊廟」の記事における「戦災被害とその後の変遷」の解説
霊廟は1945年3月10日および同年5月25日に空襲に遭い、旧国宝指定物件の21棟のうち、二天門と奥院宝塔を除く19棟、附指定の7棟のうち宝塔を除く6棟、附指定の銅鐘、附指定の銅燈籠12基のうち8基、惇信院宝塔の附指定の銅燈籠6基のうち2基が焼失した。これら焼失物件は、1949年10月13日の官報告示で正式に指定解除された。 焼け残った二天門及び奥院宝塔、並びに附指定の惇信院宝塔及び銅燈籠8基は1950年の文化財保護法施行後は重要文化財となった。 戦災焼失をまぬがれた銅燈籠8基は原位置から移動したため、1957年7月24日付けで重要文化財の指定を解除された。同じく戦災焼失をまぬがれた奥院宝塔と、附指定の惇信院宝塔は、墓地の改葬に伴い、1958年5月14日付けで重要文化財の指定を解除された。以上により、有章院霊廟関係の重要文化財で指定解除されていないのは二天門のみとなった。 徳川家霊廟に埋葬されていた徳川将軍、夫人、側室らの遺骨は1958年に学術調査が実施された後、桐ケ谷斎場で荼毘に付され、増上寺安国殿裏の増上寺御霊屋(徳川将軍家墓所)に改葬された。 増上寺安国殿裏の増上寺御霊屋(徳川将軍家墓所)には、有章院宝塔、惇信院宝塔を含む旧重要文化財の宝塔8基(下記)が移設されている。また、旧文昭院霊廟奥院中門(銅製、旧重要文化財)が同墓所入口の門として転用されている。 増上寺御霊屋に移設された宝塔崇源院(徳川秀忠夫人)宝塔(石造) - 改葬後は台徳院(秀忠)を合葬する(台徳院宝塔は木造であったため戦災で焼失) 文昭院(徳川家宣)宝塔(銅造) - 改葬後は天英院(家宣夫人)を合葬する 有章院(徳川家継)宝塔(石造) 月光院(徳川家継母)宝塔(石造) - 改葬後は将軍の生母・側室等の合祀塔となっている 惇信院(徳川家重)宝塔(石造) 慎徳院(徳川家慶)宝塔(石造) 昭徳院(徳川家茂)宝塔(石造) 静寛院宮(徳川家茂夫人和宮)宝塔(銅造)
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