戦災復興都市計画の挫折とその影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 19:27 UTC 版)
「戦災復興都市計画」の記事における「戦災復興都市計画の挫折とその影響」の解説
戦災復興都市計画は、帝都復興によって開花し、国内のみならず外地や満州国の都市建設で磨き上げられてきた日本の都市計画手法・技術・エンジニア等を惜しみなく投入した、近代日本の都市計画の集大成とも言えるものであった。しかし全ての都市がその目的を果たすことができたわけではない。戦災による資材・資金・人手不足、都市計画などよりもその日を生き延びることで精一杯という住民の状況と、その上にGHQからの反対とドッジ・ラインによる緊縮財政という巨大な壁に阻まれ、東京をはじめとする多くの都市で計画が縮小・挫折した。特にGHQの反対とドッジラインによる緊縮財政は復興都市計画にとって致命的な痛手となった。 近年、新橋周辺の再開発(環状2号線の建設)において「マッカーサー道路」なる言葉が使われ、あたかもGHQが道路計画を立案したかのような報道がなされたが、これは事実に反している。GHQは復興都市計画には兎角冷淡であり、「まるで戦勝国の都市計画だ」と言って計画の縮小を求めていた。 一方、仙台市、名古屋市、神戸市、広島市といった都市では市長や都市計画関係者の努力により、当初の計画に近い形で復興を成し遂げることができた。これらの都市では復興インフラが観光資源となることも多い。名古屋市の久屋大通や広島市の平和大通りといった100m道路、仙台市の青葉通りのケヤキ並木などである。これらは都市計画が都市の魅力を向上させた好例であるといえる。都市計画や交通計画の学者・関係者等の意見では、計画を実現できなかった多くの都市には広い道路が無いためモータリゼーションに対応できず、高度経済成長期以降に交通渋滞や防災上の問題を抱えることとなったとしている。
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