計画の縮小
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 01:27 UTC 版)
「XB-70 (航空機)」の記事における「計画の縮小」の解説
ヴァルキリー計画はあまりに多額の費用を必要としたことから、1959年にはアイゼンハワー大統領が計画を試作のみで留める発言を行っている。また1957年8月にソビエト連邦が世界初の大陸間弾道ミサイル・R-7の打ち上げに成功したことで、弾道ミサイルに予算を割くべきであるという意見が浮上してきた(スプートニク・ショック、ミサイル・ギャップ論争も参照)。しかし米ソ冷戦の真っ只中にあってはルメイをはじめとした爆撃機推進派の方が優勢だった。 ところが1961年にジョン・F・ケネディ大統領が就任し、ロバート・マクナマラを国防長官に任命したことで状況は一変する。マクナマラはPPBS(効用計算予算運用法)という手法によって比較した結果、費用・効果・速度の面でXB-70は弾道ミサイルに及ばないと結論付けていた。高々度を飛行することで対空防御をかわすという意見も、レーダー反射断面積の大きさに加え同年に高々度偵察機U-2がS-75(SA-2ガイドライン)地対空ミサイルで撃墜される事件が起こったことで説得力を失ってしまう。結局ケネディとマクナマラはヴァルキリー計画を試作機三機のみ(XB-70×2、YB-70×1)で打ち切ることを決定した。また随伴護衛機として計画されたF-108“レイピア”は実機が製作されないままキャンセルとなった。XB-70はF-108と共通のエンジンを採用する予定であったため、エンジン開発の負担増、ひいては様々な新機軸の採用もあいまって開発の遅延につながってしまう。 やがて1962年のキューバ危機、1963年11月22日のケネディ大統領暗殺事件を経て、1964年5月1日、XB-70の1号機が完成。同年9月21日には初飛行に成功した。1号機は外皮や塗装のトラブルなどに悩まされたが、1965年5月29日に完成・7月17日初飛行した2号機はそれらの問題をクリアしており、成績は非常に優秀だった。しかし最終的にYB-70はキャンセルとなった。 1号機は1965年10月14日、2号機は1966年1月3日にマッハ3での飛行に成功した。最高速度記録は同年4月12日に2号機が出したマッハ3.08である。ただし実際には、(SR-71の原型となった)ロッキードのA-11の方がXB-70のロールアウトする数ヶ月前に先にマッハ3で飛行している、とジョンソン大統領に発表されて、XB-70側としては水を差された格好となった。ただしXB-70がマッハ3以上で飛行した時間は2機合わせてもわずか1時間48分しかない。 また本機は、偵察爆撃機RS-70(RSはReconnaissance Strike:偵察爆撃を意味する)として活路を見いだし、採用を目論んだが、A-12より発展したSR-71との競争に敗れ、こちらも不採用となっている。 一方、ソビエト連邦では、これより若干早い時期に超音速爆撃機としてM-50を開発していた。またMiG-25はXB-70開発の情報を受けたソ連によってこれを迎撃可能な戦闘機として開発されたといわれることがあるが、現在ではA-12の迎撃を目的に開発されたと考えられている。しかし結局はXB-70の後を受けてB-70という量産機が開発されることも、これを迎撃するためにMiG-25が発進することもなかった。
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