計画の終了と継続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/11 20:45 UTC 版)
「FCM1A (戦車)」の記事における「計画の終了と継続」の解説
前述のような事情を抱えつつ、FCMの重戦車開発計画は総体としては順調に進められていた。 ニヴェルはフランスの開発・生産する戦車の発展に対し、大きな関心と努力を払っていることを示す必要性があり、1917年初頭の段階で、FCMにはムーレの進める、 総数20個の小径、ないし大径9個の懸架装置付き二重構造式車輪を持つ、全長6.92m、75mm砲を装備する重量30tの「A」型 総数30個の小径二重構造式車輪を持ち、主要転輪はボギー式懸架装置付きの転輪構造としたものを片側5組装備し、これに6個の上部補助転輪を持ち、A型を元に7.39メートルに延長された車体に75mm砲と2門の機関銃を備えた2つの砲塔を搭載する、重量45tの「B」型 総数40個から50個の小径車輪を備えた片側6組のボギー式懸架装置と9個の上部補助転輪を持ち、9.31mの車体に110馬力のエンジンを4基搭載し、油圧駆動もしくは電気式駆動機構とし、75mm砲もしくは105mm砲を装備する砲塔を備える、重量62tの「C」型 以上3種の重戦車の同時開発を許可していた。 エスティエンヌを含め、委員長であるムーレを除いた諮問委員会はこれらの車両、特にB型とC型の存在意義に対して非常に懐疑的だった。ニヴェル自身もこれらの重戦車の必要性については疑問視しており、更に、ニヴェルは重戦車の開発計画に要する莫大な予算に関して政府と議会から追及されることに怯えなくてはならなかった。事実、ピエール・ルノーデル(仏語版)率いるフランス議会財務調査委員会からはこの件に関しての問い合わせがなされ、ニヴェルの不安を強めた。彼にとって重戦車そのものは大して重要ではなかったが、政府と議会の不興と不信をかった場合、自らの進めている大攻勢への賛同が得られず、作戦の実行が困難となるからである。 ニヴェルの不安をよそに、ムーレは自分の進める重戦車開発計画の推進に自信を深めており、エスティエンヌも「重戦車は戦車部隊の主力には成り得えず、軽量型戦車に優先して生産される必要はないが、それらが必要とされる局面がまったく無いということではなく、重戦車が活用される状況は限定的ながら、投入する局面を誤らなければ大きな戦力になる」と考えており、少数ではあっても重戦車を生産し、それを装備した部隊を編成することを構想していたため、1917年2月9日の会合でエスティエンヌは重戦車の必要性について主張し、2月21日の委員会決定では重戦車の開発計画は続行されることになった。 諮問委員会の決定は、量産されるべき重戦車は、先のABC案のうちA型にB型の仕様を採り入れたものとして、重量45トン、75mm砲もしくは105mm砲を装備、最大装甲35mmの砲塔を持ち、全長9mの長大な車体にルノー製水冷V型12気筒(250馬力)のエンジンと機械式もしくは油圧式の変速機構を持つ、というものであり、このうち油圧式変速機構は実用化に問題があるとして難色が示された。その後の委員会の検討結果としては、変速装置にはサン・シャモン突撃戦車で既に実用化されている電気駆動方式が最も適しており、そのような形でC型の仕様も採り入れて先の3車種を統合するべきである、というものであった。 しかし、ニヴェルの推進した1917年春の大攻勢が完全に失敗し、計画を主導したニヴェルは最高指揮官から更迭された。フランス軍による最初の“戦車の実戦投入”もまた同様に失敗し、この作戦で初めて実戦運用されたシュナイダーCA1及びサン・シャモン両戦車の実用結果は散々なものであった。これにより「「戦車」というものは実際には使いものにならない」という“戦車不要論”がフランス軍内でにわかに発生し、それを受けてトーマ軍備大臣はすべての戦車生産と開発計画を放棄するよう命令した。この決定を翻させるべく、それまで対立していたエスティエンヌとムーレは緊急に“同盟”を結び、「どのような戦車を開発・生産するかに関わらず、戦車の開発と生産は継続させる」ことに尽力した。しかし、トーマが急ぎロシアを訪問するためにフランスを離れた際、ムーレはエスティエンヌを出し抜くべく、自身の進める戦車計画を独断で再開させ、重戦車の生産を既成事実とするべく、最終仕様が決定されていないにもかかわらず、FCM社に“char lourd”を50両発注したが、先年試作車を発注した際とは状況は異なり、この発注は即座に発覚し、新兵器開発担当国防次官のジュール・ルイ・ブルトン(仏語版)によって即日で取り消された。ムーレの独断専行に激怒したトーマは帰国後ムーレを解雇し、エスティエンヌの最大のライバルは追放された。 こうしてフランスの重戦車開発計画は頓挫したかに思われたが、1916年10月にムーレによってFCM社に発注された重戦車開発計画及び試作車両の製作は取り消されておらず、上述の3車種のうち、「A」型が1917年1月17日の諮問委員会会合で承認された設計案の2種類の拡大発展型の一方である「FCM 1A」として製造作業が続けられており、「B」案はもう一方のFCM 1Bとして開発が続けられていた。 エスティエンヌの親友であり、フランス軍の新任の最高司令官であるフィリップ・ペタン将軍は、ムーレよりCCAS委員長職を引き継いだエスティエンヌに対し、彼の立場を利用して、この重戦車開発計画を終了させるよう要請した。エスティエンヌは「この開発計画は、前任者が個人的な動機で無分別に始めた上に、世間がこれらの重戦車がなぜ生産されないのかを疑い始めるまで誰も問題を指摘できない状態に置かれていた」とペタンに釈明したが、前述のようにエスティエンヌは重戦車の必要性そのものはあると考えていたため、ペタンを説得して1917年6月には重戦車の開発と生産を限定的ながら公式に決定させ、FCM社には「これまで発注されたもののうち、製造中の重戦車の試作1号車のみは引き続き製作し、完成させて納入するべし」との通達が下された。 1917年12月にはFCM 1Aの試作車両が完成して納入され、12月10日には諮問委員会に検査される準備を整え終わった。最初の試験は1917年12月21日と22日に、ラ・セーヌ=シュル=メールのFCM社の近傍にある、地中海に面したサブレット海岸(仏語版)で行われた。エスティエンヌの閲覧のもとで行われた各種の走行試験で試作車は高さ1mの障害物を乗り越え、幅4mの壕を渡り越えるなどの高い成果を見せ、操舵機構に起因する操縦性や旋回性能には問題があるとされたものの、続けて行われた武装関連の試験でも高い成果を示して関係者の期待を集めた。試験結果を踏まえた結論として、1Aの量産も視野に入れつつさらなる改良型を開発することになった。問題の多かった変速機と操舵機構の改善が最重要とされ、今後の開発はFCM 1Bに移行することになったが、FCM 1Bは最終的には電気式駆動機構とすることが予定されていた。
※この「計画の終了と継続」の解説は、「FCM1A (戦車)」の解説の一部です。
「計画の終了と継続」を含む「FCM1A (戦車)」の記事については、「FCM1A (戦車)」の概要を参照ください。
- 計画の終了と継続のページへのリンク