計画の経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 02:38 UTC 版)
「アポロ・ソユーズテスト計画」の記事における「計画の経過」の解説
1975年7月15日に、2人乗りのソ連のソユーズ宇宙船19号が打ち上げられ、その7時間半後に3人の飛行士を乗せたアメリカのアポロ宇宙船18号が打ち上げられた。両宇宙船は、7月17日に地球を周回する軌道上でドッキングした。二つの宇宙船は44時間にわたってドッキングし、その間、両船の表敬訪問や旗の交換、食事会、宣言書への署名などのセレモニーが行なわれた。 当初の計画では、宇宙での米ソの宇宙飛行士による最初の握手は、英国西海岸のボグナー・レギス上空で行われる予定だったが、スケジュールの遅延により実際にはフランスのメス上空で行なわれた。アメリカ側の搭乗員のスタッフォードは、強いオクラホマ訛りでロシア語を話したため、ソ連側のレオノフ船長は、「この船では三つの言語が使用されている。ロシア語と、英語と、もう一つはオクラホマスキーだ」などとジョークを飛ばした。 ドッキングを切り離した後は、ソユーズが「地球」アポロが「月」になり、アポロの船体で太陽を隠す人工日食の実験が行なわれ、太陽のコロナが撮影された。共同作業は7月19日にすべて終了し、ソユーズ宇宙船19号は7月21日、アポロ宇宙船18号は7月24日に地球へ帰還した。 計画を通じて唯一の失敗は、帰還の準備の際にアメリカ側の乗組員が操作を誤り、有毒ガスが船内に充満してしまったことであった。ブランド飛行士が意識を失い、スレイトン飛行士が吐き気を訴えた。治療のため、三人の飛行士は帰還後ハワイのホノルルの病院に二週間入院した。 当時は米ソの一時的な緊張緩和(デタント)の時期を迎えており、莫大な費用がかかる宇宙開発は今後国際共同開発で行うべきだとの世論もあり、米ソ両国の利害が一致した。一方でアポロ13号船長のジム・ラヴェルや航空評論家の佐貫亦男のように、「米ソの緊張緩和には役立ったかもしれないが、技術的にはほとんど意味が無い」という評価もある。しかし、このとき米ソ両国の宇宙船をドッキングするために開発された様々な技術は、後にスペースシャトルがミールにドッキングしたり(シャトル・ミール計画)、後のISSを建造するなどのミッションにおいて活かされることになった。
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