開発と生産
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1960年代、ソ連はT-64を新たな主力戦車として配備を進めていたが、当時の最新技術を詰め込んだ結果、5TDFディーゼルエンジンをはじめ自動装填装置の不具合など多くの問題点が露見、そして、最大の問題は生産コストの高さであり、充分な数を配備することが厳しい状態だった。 こうした中、T-64よりも堅実で安価な戦車の開発が、1967年からT-62の車体をベースとした「オブイェークト172」として始まり、「オブイェークト172M」としてプロトタイプが完成した。1971年-1973年にかけ各種試験を経て正式にT-72として採用され、1974年よりチェリャビンスク・キーロフ戦車工場にて、従来のT-55およびT-62の生産ラインから全面的に切り替えられ、生産が開始された。 T-72は、旧共産主義圏にて、1970年代からソビエト連邦の崩壊の1991年までもっとも多く使われた戦車であり、ソ連国内の主力工場であるウラル車両工場だけでも1990年までに22096両が生産された。ポーランドやチェコスロバキア、インド、ユーゴスラビアでもT-72M等のダウングレード版(いわゆるモンキーモデル)がライセンス生産され、総生産数は各型合わせて30000両を超えるとされる。ポーランドとチェコスロバキアでライセンス生産されたT-72Mは、砲塔前面の装甲が複合装甲から単純な鋳造装甲にダウングレードされるなど性能が意図的に引き下げられていた。ソ連でも1990年までに自国製の輸出用モデルが開発され、アラブ諸国を中心に大量輸出した。これもやはり装甲や砲弾の威力などが大幅スペックダウンしたモンキーモデルであった。[要出典] ワルシャワ条約機構加盟国以外にもフィンランドやイラン・イラク・シリア・リビアなどの親ソ中東諸国にも輸出された。80年代にはイラクに対しチェコやポーランド、ソ連がT-72完成品を輸出した。後には、半完成部品をノックダウン生産でイラクで組み上げて中国製の部品で改造も行い、国産戦車を自称してバビロンの獅子(英語版)と命名された。またイラン・イラク戦争で使用した直輸入T-72の砲身寿命が短く、ソ連からの交換部品の供給も滞ったことから、イラク国内に砲身工場を作ることになり、これがライセンス生産化の始まりであったという。なお、ユーゴスラビア型のM-84はクウェートに輸出され湾岸戦争で対イラク戦に使用され、後にイラク戦争後の新生イラク軍(イラク治安部隊)にも導入されている。 ソ連においては、1974年に配備が始まった初期型から数多くの改修が実施されている。初期に生産されたモデルはステレオ測遠器を装備していたが、1978年から生産されたT-72Aでレーザー測遠器が装備され、砲塔に複合装甲が採用された。1985年から生産されたT-72Bでは主砲から対戦車ミサイルが発射可能となり、エンジンも840馬力のV-84に換装された。1980年代にはリアクティブ・アーマーが追加された。ソ連崩壊後しばらくはロシアの深刻な財政難から改修が滞っていたが、プーチン政権下での経済回復に伴い2012年より大幅な近代化が図られたT-72B3への改修が進んでいる。 旧ソ連構成諸国や旧東側諸国ではそれぞれの生産技術を元に数多くのバリエーションを開発しており、自国で生産したオリジナルタイプの輸出から既にT-72を購入した国への改修パッケージキットの販売など、その販売形態も広がっている。T-72自体が長期に渡り多くの国々に供給されたこともあり、ソ連から独立した諸国にとっては現在でも魅力的な軍事マーケットとなっている。
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開発と生産
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「九〇式三号水上偵察機」の記事における「開発と生産」の解説
一四式水上偵察機の生産が開始されて間もない1927年(昭和2年)に海軍は一四式水偵の後継機の開発を愛知航空機、中島飛行機及び川西航空機の3社に対し指示した。また、これとは別に海軍の直轄として横須賀海軍工廠に対し一四式二号水偵改一Cとして試作を行わせた。横須賀海軍工廠では佐波次郎少佐を設計主務者として、一四式水上偵察機を基に作業を開始し、翌年8月にブリストル ジュピター発動機または、九一式液冷500馬力発動機を搭載した試作機2機が完成した。 これに対し、愛知航空機を始めとする各社は複座水上偵察機の試作設計の方に注力するため辞退する結果となった。 名前は一四式であるが鋼管溶接構造の胴体は後半部を細くして後下方銃座を設け、主翼、尾翼も再設計されており全く別の機体と言っても良かった。そして水冷エンジンのロレーヌ450馬力発動機(ロレーヌ 12E)を装備した一四式二号改一C、ジュピターF8に戻し機首を延長した一四式二号改一Dを経て[要出典]1932年(昭和7年)4月に九〇式三号水上偵察機として制式採用され、量産は川西航空機が担当した。 最大速度は一四式二号水偵と大差がないが、武装が前方固定機銃2挺、後方旋回2挺に爆弾250kgまでと格段に強化されているのが大きな特徴である。初期生産型では発動機にジュピターを搭載していたが、後期生産型には九一式500馬力発動機が搭載された。川西で発動機を九一式500馬力発動機に換装した後期生産型は最大速度が185km/hに、3,000mまでの上昇時間も25分に短縮している。[要出典] しかし開発に時間をかけながら大幅な向上が認められず、さらには後継機となった七試水上偵察機(後の九四式水上偵察機)の開発が順調であったため、生産機数は17機に留まった。
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開発と生産
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1941年から1942年にかけ、東部戦線のドイツ軍は、初冬と春先の泥濘に悩まされることになる。通常の軍事行動はもちろんのこと、前進した部隊への補給もままならなくなり、かろうじてハーフトラック類だけがある程度の行動が可能であった。しかし、ナチス・ドイツが当初から軍用に開発していたハーフトラックは高価なため補給任務に使用するには不経済な上、数も足りなかった。 それに代わって戦争中盤以降多用されるようになったのが、既存のトラックをベースに製作された簡易ハーフトラック、マウルティアである。1942年、オペル、フォード(ドイツフォード)、マギルス(KHD)各社に、それぞれの3トントラックをベースとした車両が Sd Kfz 3 の型式名で発注され、同年末から生産が開始された。 マウルティアは、基本的には既存のトラックの後輪部分を装軌式に改修したもので、装軌式の足回りはさまざまな型式が試みられたが、3トントラック・ベースのものでは、イギリス軍から鹵獲したユニバーサル・キャリア、もしくはカーデンロイド軽戦車系列から部品を流用し、開発されたものが生産型の基本形式となった。転輪とサスペンションはほぼカーデンロイドのままで、履帯は、これもカーデンロイド軽戦車用のコピーであるI号戦車と同型式のものが使われた。 オペル製マウルティアは「ブリッツ」の名で有名な 3.6-36S をベースとし、型式名は Sd Kfz 3a、フォード製は V3000S がベースで Sd Kfz 3b、マギルス製は S3000 がベースで Sd Kfz 3c の型式名(特殊車輌番号)で、各社合わせて2万両を超える量産が行われた。中でもフォード製の生産台数が最も多く、14000両近くに達した。オペル製は約4000両、マギルス製は約2500両であった。 また、マウルティアは4.5トンのメルセデス・ベンツL4500Sをベースにしたものも作られた。L4500Sベースのマウルティアはメーカー側呼称はL4500R、特殊車輌番号は当初 Sd kfz 4だったが、後に Sd Kfz 3/5 に改められた。大型の車体に合わせ、足回りは基本的に II号戦車から流用したものが使われていたが、起動輪は専用のものとなっていた。L4500Rは重国防軍牽引車(sWS)の生産が軌道にのるまでの代替として、1943年から1944年にかけて1480両が生産された。 1943年4月には、オペル製マウルティアをベースに装甲を施し、ロケットランチャーを搭載したパンツァーヴェルファーと、その弾薬運搬車も製作された。 しかし、東部戦線の悪路は、場所によってはハーフトラックでも走破が困難な場合もあり、全装軌車のRSOトラクターも開発されている。
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開発と生産
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1942年から1943年にかけて開発・製作された対戦車自走砲TACAM T-60に引き続き、もともとルーマニア軍が保有していたR-2の対戦車自走砲化が図られることとなった。 R-2は戦前、チェコから126両が輸入され、ルーマニア軍の主力戦車として使用されていたが、その軽装甲(最大25mm)と弱武装(37mm戦車砲)では強力なソ連戦車に太刀打ちできないことが明らかになっていたためである。 1943年春に出された要求に基づき、開発はTACAM T-60同様、コンスタンチン・ギウライ中佐を中心とするチームが行い、7月から9月にかけてブカレストのレオニダ製作所で試作車両1両が製作された。 評価試験の結果、シルエットの高さの欠点はあるものの、元のR-2に比べ充分に有効な兵器であると判断され、1944年2月、40両のR-2の自走砲化が決定した。なお、試作車両はTACAM T-60と同じく76.2mm野砲1936年型(F-22)が使われていたが、生産型では、より新型の76.2mm野砲1942年型(ZIS-3)が搭載されることになった。 最初の20両のR-2が部隊から引き上げられ、1944年2月から6月の間にレオニダ製作所で改装作業が行われた。新型砲を搭載した生産型TACAM R-2は、鹵獲したT-34への射撃試験の結果、砲に合わせて国産された徹甲弾を使って500mの距離で貫徹可能であった。 しかしこの頃には、ソ連軍はより重装甲のIS-2重戦車なども投入し始めており、1944年7月、残り20両の改装は取り止めとなった。 改装は、基本的にR-2の車体はそのままで、車体戦闘室上面装甲のみを除去、操縦席上部のみに新たな装甲板を載せ、その上に砲を搭載した。新たな戦闘室は、前側面と上面半分のみに装甲を持つ開放式で、側面装甲すぐ内側が砲弾ラックとなっていた。新設の戦闘室上部装甲には、TACAM T-60同様、やはり鹵獲されたBT-7などの車体装甲板が再利用された。
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開発と生産
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「TACAM T-60」の記事における「開発と生産」の解説
1941年夏に始まったバルバロッサ作戦への参加により、ルーマニア軍は自国の兵器がT-34、KV-1などのソ連戦車にまったく歯が立たないという深刻な問題に直面することになった。 ルーマニアの工業力では即座にこれに対抗する兵器の開発は無理で、そのため、ソ連からの大量の鹵獲兵器を有効活用することになった。 開発を担当したコンスタンチン・ギウライ中佐は、スペアパーツが豊富にあったT-60軽戦車をベースに、76.2mm野砲1936年型(F-22)を搭載するオープントップの対戦車自走砲を作り上げた。戦闘室前側面の装甲板は、ルーマニア国内で上質な装甲鋼板の供給が望めなかったため、やはり鹵獲したBT-7の車体が再利用された。 完成した自走砲は、TACAM T-60(Tun Anticar pe Afet Mobil T-60、T-60車体対戦車自走砲)と名付けられた。 改装はブカレストのレオニダ製作所で行われ、1943年1月に1号車が完成したのに続いて、6月末までに計17両、年末までに残り17両が完成した。 改装はT-60軽戦車の戦闘室上面を取り除き、ほぼ車体中央上部に76.2mm野砲を搭載、前後面のみを装甲板でカバーした。側面装甲後半部は左右に開くことができるようになっていた。車内の狭さから、フェンダー上や車体後部上面、後面に工具箱や弾薬箱が増設された。元が鹵獲兵器であるため、使用されたT-60車体はソ連各生産工場製のものが入り交じっていた。
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開発と生産
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ランチア IZ トラックをベースに開発されたランチア IZMは、当時としては先進的なデザインを持った装甲車であった。回転砲塔に2挺、車体後部に1丁の機銃を備え、後期の型はさらに砲塔上部にも機銃を装着、当時としては強力な火力を備えていた。 第一次大戦中の戦訓により、車体前上部には、ワイヤー切断用のレールが装着された。ランチア社により、1918年中に約120両が生産された。
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開発と生産
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「AB 41 (装甲車)」の記事における「開発と生産」の解説
イタリア陸軍は、スペイン内戦や、北アフリカや東アフリカでの植民地での戦闘経験から、路外機動性の高い装甲車を求めていた。フィアット・アンサルドはこれに応え、1938年の木製モックアップを経て、1939年5月、ABM1と呼ばれる試作車を完成させた。 その後の試験と改良を経て、同車はAB 40(Autoblindo=装甲車、40年型)として採用され、1940年10月から量産が開始された。 車体は圧延鋼板のリベット接合で、避弾経始を考慮し傾斜装甲が取り入れられていたが、車体前・側面で9mm、砲塔前面で18mmと、比較的軽装甲であった。後進用に戦闘室後部に後ろ向きの副操縦席が設けられているのはこの時代の装甲車としては一般的で、その隣には防御用に後方車体銃が設けられていたが、これは背の高いエンジン室に遮られ、射界は限られたものだった。また、戦闘室とエンジン室の間には隔壁がなく、このため熱気や騒音で車内の居住性はよくなかった。 足回りは4輪駆動独立懸架、4輪操舵で、車体中央に置かれたデファレンシャルから X 字形に4輪に駆動軸を伸ばした独特の機構であった。この機構のため、各車輪はサスペンションの作動の自由度が高く、高い不整地走行性能を発揮させることができた。ただし、ギア部が複雑になり整備が難しく、また高速走行時に車輪がぶれる難点もあった。この走行装置は、後に北アフリカの砂漠戦用に開発された非装甲の高機動車輌、カミオネッタ・サハリアナ42(AS 42)にも流用された。 車体左右中央部には、埋め込み式にスペアタイヤが置かれ、起伏の大きい不整地で車体中央が接地するのを防ぐ役も担った。 初期の生産車は砲塔にブレダM38車載機関銃の連装を備えるだけだったが、この仕様の生産車は少数に留まり、1941年からはL6/40軽戦車と略同型の砲塔にブレダ20/65 20mm機関砲を搭載した型へと生産が切り替わり、これが主量産型となった。20mm砲搭載型も当初は同じAB 40の名称だったが、1942年にAB 41の別名称が与えられた。 AB40/41は、騎兵部隊、自動車化歩兵部隊、機甲師団の偵察部隊、軍警察部隊などに配備され、第二次大戦を通して全戦線で使用された。
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開発と生産
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1930年代、イタリアはL3豆戦車を開発、量産して装甲部隊の基礎を築いたが、無砲塔・軽装甲・弱武装のL3は、偵察用としても力不足なのは30年代末にすでに明らかであった。 フィアット・アンサルド社では、L3を拡大発展させた輸出用戦車として1936年より5t軽戦車を試作していたが、最初の試作車は無砲塔で車体左側に37mm砲を搭載、2つ目の試作車は車体の37mm砲に加えて小砲塔に8mm機銃を連装で搭載、3つ目の試作車は砲塔に37mm砲を備えていた。この5t軽戦車試作3号車が原型となり、L6軽戦車が開発された。 L6の車体の基本的デザインは、砲塔を持つほかはほぼL3豆戦車のままで、ただし足回りは機構を一新、転輪2個のボギー2組を、長大なスイングアームを介してトーションバー・サスペンションで懸架した。接地長を稼ぐため、後部誘導輪も接地する型式であった。L6に先だって採用されたM11/39中戦車の足回りはリーフスプリング型式で、その後も量産されたイタリア製中戦車・重戦車はすべて同型式を踏襲したので、結果的に、L6はイタリア戦車中最も特徴的な足回りを持つことになった。 試作時には武装が決まらず暫定的に砲塔にブレダM38車載機関銃を連装で搭載したが、生産型では、試作車に比べ大型化した砲塔にブレダM35 20mm機関砲が搭載された。この砲塔設計は同時期に作られたAB41装甲車にも流用された。 なお、5t軽戦車の試作と同時期の1937年に、スペインの国民戦線では、L3/35を基に、「C.C.I. Tipo 1937」(1937年型歩兵戦車)という、ブレダM35 20mm機関砲を旋回砲塔形式で搭載した軽戦車が試作された他、ドイツから供給されたI号戦車A型4輌が砲塔にブレダM35 20mm機関砲を搭載するよう改造されている。 L6はL3の代替として開発されたものの、生産は結局開戦後の1941年からとなり、この時にはすでに能力的に見劣りするものとなっていたため、生産は翌1942年末で打ち切られ、その後はセモヴェンテ da 47/32自走砲用に車台のみが1943年まで生産された。L6は主に偵察任務の騎兵師団に配備された他、ドイツ軍も対パルチザン戦に使用した。残存した車輛はイタリア軍によって1950年代初頭まで使用された。
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開発と生産
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「ニムロード (自走砲)」の記事における「開発と生産」の解説
トルディ軽戦車として採用・ライセンス生産したL-60軽戦車に続いて、ハンガリー陸軍は同じくランズベルク社製のL-62自走砲のライセンス権を購入した。 L-62自走砲は、エンジンやトランスミッション、サスペンションなど多くのコンポーネントがL-60軽戦車と共通であり、また搭載砲のボフォース40mm機関砲も、すでにハンガリー国内でライセンス生産が行われていたので、国産化するには非常に都合のよい車両であった。車台形状はL-60/トルディ軽戦車とよく似ているが、大型の砲を搭載するために全長・全幅とも拡大されており、転輪は似た形状を持つものの小径で、片側5つに増やされている。 国産化にあたり、操作性向上のため、若干砲塔が大型化されるなどの改良が行われ、「40Mニムロード対戦車/対空自走砲」(40M Nimród páncélvadász és légvédelmi gépágyú)として制式採用された。 第1生産ロット(ニムロード I)は46両、第2生産ロット(ニムロード II)は89両で、マーヴァグ社において計135両が生産された。第1ロットのニムロードは、ドイツのビュシングNAG社製エンジンを搭載。第2ロットは国産のガンズ社製エンジンを搭載した。 もともと対戦車自走砲としての役割も期待しての採用であり、実際に、当時のハンガリー軍の主力であったトルディ軽戦車や、40mm砲搭載型のトゥラーン中戦車よりもその砲は強力だったが、T-34などのソ連戦車には太刀打ちできず、実戦では、地上目標は軽装甲車両までで、もっぱら防空用途に使用された。
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開発と生産
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「スベンスカ ヤクトファルク」の記事における「開発と生産」の解説
第一次世界大戦が終わると、いくつかの航空機製造社が開業された。このうちのスヴェンスカ社が自主開発したのがヤクトファルクである。同社はスウェーデン航空委員会へ戦闘機についての指針と要望を問い合わせたが、何らの返答もなかったために、スヴェンスカ社は何らかの手引を得るために国外の設計を調べた。ヤクトファルクはアームストロング・シドレー製のジャガー9気筒星型発動機を搭載した標準的な複葉機である。固定脚で尾部の下には橇が付けられ、胴体は木金混合構造に合板と布張りである。機首と尾部はアルミニューム板金で覆われている。燃料タンクはエンジンと操縦席の間にあり、満載で2.5時間の飛行が可能である。 スウェーデン空軍テストパイロットのニルス・ソーダバーグ(Nils Söderberg)がバルカビイ(Barkarby)空軍基地で試作機の試乗を行った。試乗後に彼は「これは私が乗った飛行機の中で最も素晴らしい」と述べている。 1929年11月11日、ヤクトファルクは当局の代表と記者に公開された。スウェーデン航空当局は3機のヤクトファルクと3機の英国製ブルドッグ戦闘機を比較試験のために発注した。 試作機は1930年1月9日にスウェーデン空軍に納入され、J 5と命名された。スウェーデン航空委員会はブリストル製のジュピター発動機を空軍の標準発動機とすることを決定していた。そのため、設計者のカール・クリーメンス・ビュッカー(Carl Clemens Bücker)は新しい発動機を搭載させるため発注されていた2機の胴体の改造を余儀なくされた。これらの機体はヤクトファルクⅠと命名された(またはスウェーデン空軍命名でJ 6)。1930年にはジュピターⅦ発動機搭載の5機が追加発注された。テスト飛行の際に強い振動が問題となり、スベンスカ社とCFVがこの問題の解決を試みたが成功しなかった。この機体はスウェーデン空軍に制式化された。ビュッカーとCFVは引き渡し後も着陸装置と胴体の改良を行っている。これはより角張った胴体であり、ジュピターⅦFが発動機に選ばれた。スウェーデン空軍は3機のヤクトファルクⅡを受領した。 スヴェンスカ社はヤクトファルクの輸出を熱心に試みた。アルゼンチンと日本の代表が来訪してテストを行ったが、発注には至らなかった。唯一の輸出はノルウェーで、1931年にアームストロング・シドレー製のパンサーⅢA発動機搭載の1機が発注された。この機体はフューリー戦闘機との競作に付された。1933年にスウェーデン空軍が7機の追加発注をした時には、スヴェンスカ社はASJA社に買収されており、新たな製造元によって、垂直安定板と風防に幾つかの小さな改良を施した機体が製造された。
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開発と生産
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「巡航戦車 Mk.IV」の記事における「開発と生産」の解説
1936年から1937年にかけ、イギリスは、アメリカのクリスティー式戦車を元にした巡航戦車 Mk.III(A13)を開発、採用したが、Mk.III は最大装甲厚が14mmと、甚だ軽装甲であった。 Mk.IIIの量産が開始されて早々の1939年初め、巡航戦車の最大装甲厚を30mmまで高める訓令が出された。A13試作車を使って試験を行った結果、主要部の装甲増加は速度性能にさほどの影響が出ないことが確認され、この増加装甲型A13 Mk.IIが巡航戦車Mk.IVとして採用された。装甲が強化されたのは主に砲塔部で、特に側・後面は中空方式に増加装甲が装着された。このため見かけ上、砲塔は大型化されたが、基本形状は同一である。カタログデータ上、最高速度等に変化はないが、重量増加の分、機動性は若干低下したものと見られる。 巡航戦車 Mk.IVの開発・採用は、Mk.III量産開始の直後であったため、Mk.IIIは65両と比較的少数生産に終わり、1939年中にはMk.IVの生産が開始され、665両が作られた。また、Mk.IIIの一部はMk.IV仕様に改修された。 砲塔の同軸機銃は当初はMk.IIIと同じビッカース.303だったが、後にベサ機銃に換えられた。ベサ機銃搭載型は巡航戦車 Mk.IV Aと呼ばれる。2ポンド砲の替わりに3.7インチ榴弾砲を搭載した近接支援型、巡航戦車 Mk.IV CSも少数製作された。また、Mk.IV、Mk.IVAともに、砲塔防盾部にも増加装甲カバーが装着されたものもある。
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開発と生産
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1930年代、水面下で再軍備を模索していたヴァイマル共和国軍では、高価格と機構の信頼性について問題を抱えていた当時の制式拳銃、ルガーP08の更新計画が持ち上がった。1929年に警察向け拳銃PPを発表したばかりであったワルサー社は、この動きを受けて軍部向け新型拳銃の開発に乗り出し、まず1934年に、PPを9mmパラベラム弾仕様に大型化したMP (Millitärische-Pistole) を試作した。しかし、MPの固定バレルとシンプルブローバック方式は使用される9mm弾に対して脆弱であったことから、ワルサー社は改めて1935年にショートリコイルを採用したAP (Armee-Pistole) を開発し、軍に提案した。このAPは既に後のP38に近い外観を有していたが、撃鉄が内装式でコッキングされているかどうか直感的に分かりづらい点を軍当局は好まなかった為、製造は少数にとどまった。それらの試作品の中には75mmの短銃身仕様も存在した。 APに対する評価を踏まえ、ワルサー社は1937年に撃鉄を外装式に変更したHP (Heeres-Pistole) を完成させた。陸軍兵器局で提出品の試験が続けられる間、ワルサーHPは民間市場向けに販売が開始され、第二次世界大戦勃発まではアメリカにも輸出された。スウェーデン軍は1939年と1940年に計1,500挺のHPを購入し、m/39として制式化した。民間向けとして、通常の9mmパラベラム弾仕様以外に、少数の7.65x21mmパラベラム弾や.38スーパー弾、.45ACP弾仕様も製造された。 1938年、HPはドイツ国防軍によって制式採用され、P38の名称が与えられた。翌1939年春から生産が開始され、ドイツ国防軍で実用試験に供された。HPとP38のエキストラクターは当初は内蔵式であったが、軍の改善要求を受け、排莢が左側へスムーズに行われるよう露出した構造に変更された。更に軍用であるP38については、清掃の容易化の為にグリップのすべり止めがチェッカリングから畝状に並ぶ溝に改められた。 1940年4月にドイツ国防軍での試験が完了し、軍は410,600挺を発注した。銃の左側に入れられたワルサー社のロゴは、1940年秋に機密保持のためコード番号「480」の刻印に置換えられた。この刻印は企業名をアルファベットの秘匿コードに置き換える新方針の導入に伴い、程なくしてワルサー社を示すacと製造年の数字下二桁の組み合わせに変更された。ワルサー社では1945年までに約584,500挺が生産され、民生用であるHPの刻印を持つ製品は1944年半ばまで製造された。 ドイツ国防軍は月産10,000挺以上の製造を望んでいたが、ワルサー社の生産能力ではその目標をかろうじて満たす事しかできなかったため、軍は1940年6月にモーゼル社に対し、ルガーP08の生産を終了してP38の生産を開始するよう要求した。しかし、同社によるP38の生産開始は1942年11月まで遅れ、それまではP08の量産が継続された。モーゼル社製P38には秘匿コードbyf、1945年からはSVWが打刻され、約323,000挺が生産された。 1941年9月からはシュプレーヴェルク(英語版) 社もP38の製造に加わり、翌年夏より本格的な量産が開始された。同社の秘匿コードはcyqで、1945年4月に工場がソ連軍に占拠されるまでに約283,300挺が生産された。 この他、1942年にベーメン・メーレン保護領のベーミッシェ・ヴァフェンファブリーク (Böhmische Waffenfabrik) 社にて100挺が組立てられたという軍需省の記録が残されている。 大戦末期、プレス鋼板と電気溶接による試作品も作られたが、1丁のみを生産しただけであった。 1945年の終戦時、独ソ戦の舞台となった東ヨーロッパ各国にはドイツ軍からの鹵獲・接収品としてのP38が大量に存在していた。一方、ドイツ本国に進駐したアメリカ軍なども、国内に備蓄されていたP38を一定数入手している。これにより、戦後は東西各国の軍・警察にてP38が採用され、一部では1990年代まで使用された モーゼル社は1945年4月20日にP38の製造を終了したが、5月10日には現地に進駐したフランス軍の命令により製造が再開されている。これは事前に連合国間で交わされたドイツ国内での武器製造を禁じる合意への明確な違反であった。モーゼル社の製造コードもSVW45として維持され、1946年にはSVW46となった。フランス向けP38の大部分は第一次インドシナ戦争只中の仏領インドシナへと送られた。皮肉なことに、これを受け取ったフランス外人部隊の中には敗戦後に志願した元ドイツ軍人も少なからず含まれていたという。フランス向けP38はパーカー処理のために明るい灰色に見えるものが多く、後年コレクターからは「グレイゴースト」と通称された。 シュプレーヴェルク社が所在したチェコスロヴァキアも、残っていた部品を用いて1946年に約3,000挺を組立て、CZ46と命名した。 西ドイツの再軍備に伴い、創設されたドイツ連邦軍もまた制式拳銃としてP38を欲し、1957年5月、ウルムに移転していたワルサー社でP38の生産が再開された。その後いくつかの仕様変更を施されたP38は、1963年にワルサーP1に改称された。 そのほか、イタリアの極左テロ組織赤い旅団のメンバーも、P38を凶器として愛用したと伝えられている。 1974年10月から1981年まで、銃身長を70mmまで短縮し(パイプ部分がほとんどない)、セーフティーレバーを単純にデコッキング機能だけとしたP38Kが2,600挺生産された。
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開発と生産
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ハンガリーからの移民であるニコラス・ストラウスラー(ハンガリー名:シュトラウスレル・ミクローシュ)は、戦間期、イギリスで数種の装甲車を設計した。その後ストラウスラーは、母国ハンガリー軍用の装甲車を彼の設計に基づき製作することを、チェペル/ブダペストのヴァイス・マンフレート社との間で合意した。うち、量産に移されたチャバは、ストラウスラー設計のアルヴィスAC2装甲車の発展型である。 1939年、順調に試験が終了した後、ハンガリー陸軍は「39Mチャバ偵察装甲車(39M Csaba felderítő páncélgépkocsi)」の制式名称で61両を発注、さらに1940年に40両を追加発注した(32両とする資料もある)。2次発注のうち20両は通常型で、残りは無線指揮車として製作された。 通常型の39Mチャバは車体中央の砲塔にゾロトゥルン20mm対戦車ライフルと8mm機関銃を搭載していた。車内にもう1丁の8mm軽機関銃を搭載しており、後部ハッチを通して対空射撃が可能だった。この機銃は、乗員が降車して偵察任務を行う際の携行用でもあった。また、チャバは通常の前部操縦席のほか、後進用の後部操縦席も備えていた。 無線指揮車の40Mチャバは、8mm機銃1丁のみ装備の小型砲塔付きで、通常型のR-4無線機に加え、R-4T無線機を搭載、大型のフレームアンテナを備えていた。
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開発と生産
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wz.34装甲車は、もともと半装軌車式装甲車として開発されたものが装輪式に改修されるという、特異な経歴を持っている。 1924年、ポーランドはフランスから半装軌式のシトロエン・ケグレスB2 10CV型シャーシ、135両分を入手した。シトロエン・ケグレス方式のハーフトラックは戦間期、サハラ砂漠横断などの冒険で名を上げただけでなく、軍用の牽引車として活用され、プジョーやシュナイダーによって、これをベースとした装甲ハーフトラックも開発されていた。 ポーランドでは、フランス本国のモデルを参考に、それによく似たシトロエン・ケグレスB2 10CVシャーシ用装甲ボディを自国開発し、wz.28装甲車として採用。1927年から1930年にかけ、ポーランドの自動車メーカー・CWS社で90両が製作された。 しかし実際に配備を進めてみると、不整地走行能力は思ったほど高くないにもかかわらず最高速度は低く、ハーフトラックならではのメリットが感じられない、はなはだ不本意な性能の車両であることが判明した。 そこで、これらをオーソドックスな装輪形式に改修することが決定され、1934年、最初の1両によるテストの後、7月にはwz.34装甲車として制式化された。装輪化への改修キットが配られ、1938年までにおそらく87両のwz.28がwz.34に改修された。 wz.34装甲車は、走行装置を除いてはほぼwz.28装甲車のままで、小型の砲塔には、同じくポーランド軍が装備していたルノー FT-17戦車同様、オチキス7.92mm機関銃wz.25か、ピュトー(プトー)37mm半自動砲SA-18のいずれかが搭載されていた。およそ3分の2が機銃装備型だったという。 車体の装甲形状には、元になったwz.28装甲車の初期生産型である、側面が後輪上にかぶさり、後面が垂直のもの、後期生産型で幅が狭く後面が傾斜したものとの2種類があった。なお、床面は装甲されておらず木製だった。 走行装置(エンジンとリア・アクスル)には改修の時期により別があり、これによって3種のサブタイプに分かれている。改修の経緯を考えると、装甲形状とサブタイプとは関連がないものと思われる。
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開発と生産
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「トゥラーン (戦車)」の記事における「開発と生産」の解説
ハンガリーは1938年、トルディ軽戦車の採用・生産を決定したが、その後勃発した第二次世界大戦初頭の戦争の推移から、より本格的な機甲兵力の整備が必要と判断された。そのためには、より強力な中戦車が不可欠であった。ハンガリーはドイツからIV号戦車のライセンス生産権を得ようとしたものの、これは許可されず、替わって、1940年、チェコ・シュコダ社製のT-21中戦車が選ばれた。 T-21は、同じくシュコダ社製のLT-35軽戦車(試作名称S-II-a。ドイツ軍名称「35(t)戦車」として知られる)の拡大・発展型として試作されたもので、リベット接合の車体・砲塔を持ち、LT-35譲りのボギー式リーフスプリングのサスペンション、空気圧式変速機を備えていた。当初S-II-cの試作名称で製作されていたが、1939年のドイツによるチェコ併合を経て、T-21と改称された後、試作車が完成した。 ハンガリーはこの原型をテストの後(ハンガリーが入手したのは小改良型のT-22とする資料もある)、「40Mトゥラーン中戦車(40M Turán közepes harckocsi)」(トゥラーン I)として制式採用、1940年9月、最初の230両の生産発注が行われた。 ライセンス生産に当たって、原型のT-21のシュコダA9・47mm砲は国産の51口径41M 40mm砲に改められ、砲塔形状も改変、エンジンも国産のヴァイス・マンフレード製のものになるなど、200箇所以上が変更されている。生産はガンズ社、マーヴァグ社、ヴァイス・マンフレード社、MWG社に振り分けられたが、これは主生産工場であり、パーツ供給工場はハンガリー全土に散らばっていた。トルディ軽戦車で多少の経験は積んでいたものの、開発と生産には時間を要し、国産トゥラーンの試作車の完成は1941年6月、生産車の部隊配備は1942年に入ってからとずれ込んだ。 しかし、40Mトゥラーン(トゥラーン I)の生産が本格化する前に折から始まったバルバロッサ作戦の戦訓により、40mm砲ではすでに強力なソ連戦車には太刀打ちできないことが明確化してしまった。このため、トゥラーンに短砲身ながら75mm砲を搭載する試みが並行して行われた。マーヴァグ社が開発した41M戦車砲を搭載した火力強化型は、1942年2月に試作車が完成、「41Mトゥラーン重戦車(41M Turán nehéz harckocsi)」(トゥラーン II)として制式採用された(ハンガリー軍では、75mm砲搭載車は重戦車に分類された)。この間、1941年7月には309両の第二次発注が行われていたが、75mm砲搭載型の41Mトゥラーン(トゥラーン II)の最初の生産車が完成したのは1943年に入ってからで、その後も砲の生産の遅れのため、トゥラーン I も引き続き生産された。 実際にはこのトゥラーン IIの75mm砲でも力不足は明らかなため、その後、ドイツの7.5 cm KwK 40をもとに国産化した長砲身43M 75mm砲を搭載するタイプも開発された。この「43Mトゥラーン重戦車(43M Turán nehéz harckocsi)」(トゥラーン III)の試作車は1944年に完成したが、戦局の悪化、ハンガリーの単独講和模索の動きを察したドイツ軍進駐による混乱など、さまざまな理由から生産には至らずに終わった。
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開発と生産
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1935年以降、歩兵支援用軽戦車の主力として量産が行われていたR35は、足回りに掛かる重量配分が不均衡で不整地走行能力が低いという欠点を試作段階より抱えており、その欠点を克服するため、ロレーヌ、AMX、そしてルノー自体からも、いくつかの改良提案がなされていた。 ロレーヌ、AMX、ルノーの改良案を元に1938年に試験が行われ、その結果AMX製の走行装置が優れていると判断され、1939年2月に「Char léger Modèle 1935 R modifié 1939(軽戦車-1935年式-R-1939年改)」としてAMXの案が採用された。 新型の足回りは、ルノー D2中戦車のものに非常に似通った形式で、片側12個の小転輪を2つずつ連結、さらにその2組を3本の垂直サスペンションで支えた。多くの資料では、これをD2同様に垂直コイルスプリングによる懸架としているが、この点疑問もある。なお、転輪2つを連結したボギーごとに、計6本のショックアブソーバーが付けられている。 足回り全体はルノー D2同様に装甲スカートで覆われ、履帯はシャールB1のものを小型化したような形状のものが使われた。改修により、不整地走行能力は全般的に上昇したが、速度は変わらず、新型の足回りによる重量増加で航続距離は若干減少した。 足回りを除き、車体、砲塔はR35とまったく変わらない。ただし、武装は評価試験用の改装車と思われる車両では短砲身のピュトーSA18が積まれているが、生産車では基本的に新型の長砲身37mm砲ピュトーSA38(フランス語版)が搭載され、超壕能力を増すための尾橇も標準装備であった。ただし、ドイツの侵攻が始まってから生産された最末期の車両では、尾橇が付けられていないものもある。 1940年2月のR35の生産1,500輌目から、この新型足回り付き車両の生産が予定されたが、実際には生産ライン改変の遅れから、切り替えはさらに40輌程度の通常型R35が生産された後のことになった。ドイツ侵攻による混乱で、最終的に何輌のR40が生産されたかははっきりしないが、120輌から140輌程度と言われる。登録番号 51670 を付けた車両の写真もあり、R40の生産開始が仮に 51541 からだったとすれば、写真の車両は130輌目ということになる。
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開発と生産
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「MC.202 (航空機)」の記事における「開発と生産」の解説
MC.202の前身であるM.C.200サエッタは開戦時のイタリア空軍主力戦闘機として各方面に展開したが、500km/h程度の速度性能、軽武装、更には保守的なパイロット達が開放操縦席を要求したことなどが制約となり、潜在的に持っていた優れた設計を生かしきれない戦闘機となった。部隊配属が開始された1939年時点で既にその性能の限界は見えていた。 この戦闘機が持つ本来の能力を引き出すには大馬力エンジンの搭載が不可欠であったが、イタリア国内にはそれに適したエンジンは無かった。そこで白羽の矢が立ったのは、同盟国ドイツのダイムラー・ベンツ製DB.601エンジン(水冷倒立V型12気筒、1,100馬力)である。 前身のサエッタの設計も担当したマリオ・カストルディ技師は、早速このエンジンに合うよう機体を設計し直した。極端なまでの視界要求に応えたサエッタの胴体の背の高さを低くし、胴体は60cmほど延長された。また、この機の特徴として左の翼が右に比べ20cm長いことが挙げられるが、これは同機以外でも戦前からイタリア機でしばしば用いられた手法で、プロペラの回転方向に生じるトルクモーメントを打ち消すためのものであった。 原型機(シリアルM.M.445)はDB601Aエンジン(1,175馬力)、ピアッジョP.1001可変ピッチ・定速プロペラを搭載し、1940年8月に初飛行した。エンジン換装の効果は明らかで、速度は一気に600km/hクラスになり、高度18000フィート(約5500m)まで6分以内で、十分な運動性を維持したまま上昇可能であった。空力的にみて妥当な改設計はこの戦闘機が持つ本来の力を引き出した。空軍もこの戦闘機の優秀さに目を付け、即座に量産命令が出された。 原型機はヘッドレスト・フェアリング左右に後方視界確保用の窓を持っていたが、量産機では単にフェアリング左右に窪みを付ける形に簡略化され、また引き込み式だった尾輪も固定式となった。生産は1941年5月からマッキ社で始まり、7月からはブレダ社、翌1942年5月からはSAIアンブロシーニも加わった。ただ、搭載予定のDBエンジンがドイツ国内向けの生産で手一杯だったこともあり、その生産は当初、なかなか軌道に乗らなかった。しかし1942年からはアルファロメオ社がDBエンジンをRA1000RC41(1175馬力)としてライセンス生産を開始し、ようやく生産が軌道に乗った。 イタリア軍は数年間で計1453機を発注(ブレダ:900、マッキ:403、SAI アンブロジーニ:150)し、最終的には1150機近くが生産された(ブレダ:650、マッキ:400、SAI アンブロジーニ:100)。
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開発と生産
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制式採用された“マウス”設計案には「VIII号戦車 (Panzerkampfwagen VIII)」の制式名称及び「Sd.Kfz 205」の制式番号が与えられ、設計はポルシェ社、部品の生産と組み立てはクルップ社、砲を含む最終組み立てはアルケット社により行われることが決定した。またVII号戦車 (Panzerkampfwagen VII) として“レーヴェ”の名称を持つ重戦車が開発される予定であった。“レーヴェ(Löwe)”とはドイツ語でライオンの意である。 1943年2月にはクルップ社に対して120両が発注され、同年5月1日には木製のモックアップが完成してヒトラー以下の軍関係者に披露された。これを見たヒトラーは搭載予定のものを更に上回る主砲を搭載することを要求した。12.8cm砲の搭載を指示したのはヒトラー自身であったが、『この戦車には12.8cmでもおもちゃの大砲のようだ』との感想を述べ、更なる大口径砲の搭載を命じた。ヒトラーは更に砲塔下面の跳弾防止など、防御上のいくつかの欠点を指摘した。弾薬携行数は主砲が50発から80発へ増やされ、副砲が200発から100発へ減らされた。同席した機甲総監ハインツ・グデーリアンからは近接戦闘における対歩兵用装備の不備が指摘された。これらの指摘を受けて若干の改修が指示され、5月5日には改修案を取り入れた上、生産数が追加され、計135輌が発注された。 後、グデーリアンは戦後の著書『電撃戦-グデーリアン回想録』に、ヒトラーと共にマウスのモックアップを閲覧した際のエピソードを記述している。彼は超重戦車の開発計画について触れ、重量過大で接近戦闘能力の低い超重戦車に対して非常に低い評価を与えた。また、この計画を進めたヒトラー及びポルシェ博士以下の関係者に対して厳しい批判が述べられている。 しかし、1943年7月の“ツィタデレ作戦”の失敗以降、戦局はドイツにとって不利となり、軍需資源の不足が次第に深刻になっていくことが確実視された。生産に大量の資源を使用する超重戦車に対してアルベルト・シュペーアを始めとする軍需省関係者の評価は低く、資源の浪費であるとして計画の中止が進言された。 150両分の生産準備が進められたものの、実際に戦車として形になったものは2両であり、その組立も次々に変更が加えられたことから遅延が積み重なった。1943年8月には試作車の生産が始められたが、同年10月にはポルシェ社に、11月にはクルップ社に対しても量産計画の中止が通達された。この時点ではエッセンのクルップ社工場で試作車2両の車体と1基の砲塔が完成間近で、他に4両分の車体と6基の砲塔が生産中であった。更に4両分の車体と2基の砲塔のための鋼材が準備されていたが、量産中止の通達を受け、試作車分以外の車体と砲塔はスクラップとして他の用途に転用された。後にクルップ社にはマウスの生産を再開せよとの通達が出されたため、これらのうちスクラップ化を免れていた1両分の車体と砲塔が生産ラインに戻され、クルップ社エッセン工場を調査したイギリス軍によって発見されている。 こうした戦況の悪化と量産の中止を指示された状況下においても組立は続けられた。1943年9月中旬ごろからベルリンのシュパンダウに所在するアルケット社で作業が開始され、生産された部材と鋼板が集積されたものの、アルケット社では他の車両の生産を優先したためにしばらく組立は放置された。同年、1号車は車体部のみが12月末に完成し、12月23日に走行試験が行われた。 翌年1944年1月10日にバーデン=ヴュルテンベルク州のベーブリンゲン(Böblingen)にある演習地に送られ、同年1月14日から鋳鋼製、資料によってはコンクリート製ともされるダミー砲塔を搭載し、走行試験が開始された。試作2号車は1号車の完成後に組立作業に入ったが、やはり他の車両の生産が優先されたために作業は遅々として進まず、3月には車体部のみがエンジンを搭載しない未完成状態でベーブリンゲンに送られた。1944年5月にはようやく完成した砲塔1基がアルケット社から発送されたが、既に超重戦車の開発計画には高い優先度が与えられていなかったために最終組立作業は順延され、同年6月9日に試作2号車に砲塔が搭載され、ようやく完全状態のマウスが完成した。 その後、1944年6月から9月にかけて試作1、2号車はベルリン南方のクンマースドルフ (Kummersdorf) にある陸軍車両試験場に移送され、兵装の実射試験を始めとした本格的な試験が開始されたが、最大速度、登坂能力等の機動性能は計画予定値を下回っており、燃費の悪さも想定以上であった。機械的不調も続発し、試作2号車は試験中にエンジンを損傷し、以後行動不能に陥っている。 1944年11月1日には総統官邸から正式に「超重戦車全ての開発計画の中止」が命令されたため、マウスの開発計画は終了となった。
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開発と生産
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「巡航戦車 Mk.III」の記事における「開発と生産」の解説
1936年、イギリス陸軍は、主力となる中戦車を軽装甲・高速の巡航戦車、重装甲・低速の歩兵戦車の2種に分けて開発を行うとの決定を下した。当時すでに開発が進められていた中戦車A9が巡航戦車 Mk.Iとして採用されたが、これに使われたスローモーション・タイプのサスペンションは、安定性は高いものの高速走行には向かないものであった。 一方、1936年9月にソビエト連邦軍(赤軍)の秋期演習を見学したウェーベル将軍とマーテル大佐は、アメリカのクリスティー式戦車をもとに開発された快速戦車BTに強い感銘を受け、その結果、イギリスでもクリスティー戦車の導入が図られることとなった。イギリスは、モーリス社が受け皿となってクリスティー戦車M1932を購入するとともにクリスティー本人を技術指導に招き、その改良型の開発が進められた。 ソ連のBT戦車が、特にその最初期はほぼクリスティーの設計そのままだったのに対し、モーリス社が開発したA13は車体が拡大され、巡航戦車 Mk.I とほぼ同型の3人用砲塔が搭載されるとともに、煩雑な装輪走行機能は廃止された。生産はモーリス社傘下のナフィールド社(Nuffield Mechanisation and Aero Ltd)が担当、オリジナルのクリスティー戦車にも搭載されていたリバティー・エンジンも、同社でライセンス生産が行われた。 試作車は1937年中にテストが行われ、1938年末もしくは1939年1月には量産1号車が完成、1939年夏までに発注分65両すべてが完成した。 もともと、装甲防御力を犠牲にして高速性能を追求した巡航戦車 Mk.III だが、それでも最大装甲厚14mmはあまりに薄く、1939年初めには巡航戦車の最大装甲厚を30mmに引き上げる訓令が出された。このため、装甲を強化した改良型A13 Mk.II(巡航戦車 Mk.IV)が作られ採用された。一部の巡航戦車 Mk.IIIは、後にMk.IV仕様に改修された。
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開発と生産
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ヴェルサイユ条約によって戦車の開発を禁じられていたドイツだが、戦間期、秘密裏に「WD シュレッパー」「重トラクター」「軽トラクター」などの名称で、自走砲や戦車の試作が行われ、ソビエト連邦・カザンの実験場でテストが行われた。しかし、これらはどれも試作の域を出るものではなかった。 一方、軽トラクターの開発とは別に、1927年10月、クルップ社は、後に「L.S.K.」(leichte Selbstfahrkanone、ライヒト・ゼルプストファール・カノーネ、「軽自走砲」の意)と呼ばれる、自走砲のシャーシ(車台)の開発を開始した。リアエンジン・リアドライブ方式、操縦席は前部右側にあった。シャーシ中央に37 mm砲もしくは75 mm砲が置かれる予定であった。武装と装甲を含む重量は7.9 tになる予定であった。 1年半に及ぶL.S.K.のコンセプトの議論の後、クルップ社は2輌の試作車の開発製造契約を結んだ。この計画は、軽トラクターの約6ヶ月前に開始されたが、両車はほぼ同時に試験に達した。 L.S.K.の設計は、軽トラクターと同じく、サスペンションの問題に悩まされた。L.S.K.は失敗作に終わったが、リアエンジン方式の自走シャーシの概念は、次の「小型トラクター」(Kleinetraktor、クライネトラクトーア)=La.S.=I号戦車の基礎となった。 1928年、イギリスでカーデン・ロイド Mk.VI 豆戦車(機銃運搬車、牽引車)が開発され、各国に豆戦車ブームを起こした。原型のMk.VI自体は1.5 t程度だが、実戦に耐えうるよう、改良を施すと、各国の豆戦車のように3 t程度になった。ドイツもこのブームを無視することはできなかった。 さらに、翌1929年には、「カーデン・ロイド Mk.VIII 軽戦車」を基に、「ヴィッカース Mk.I 軽戦車」(実質は豆戦車。戦闘重量4.8 t、59馬力のメドウスエンジンを搭載し、路上最高速度48 km/h、武装は.303インチ(7.7 mm)重機関銃 1挺)が開発された。実際に完成したI号戦車はこちらに近いと言える。 軽量な車体に(重量に対し相対的に)高出力エンジンを搭載した(出力重量比が小さい)カーデン・ロイド系豆戦車/軽戦車は、クリスティー系快速戦車と並んで、1930年代の戦車の高速化に大きな役割を果たしたと言える。 I号戦車の原型である小型トラクターは、そもそも3トン級の豆戦車相当として開発が始まったのであって、ここは重要な点である。I号戦車を軽戦車として捉えると、I号戦車の本質を見誤ってしまう。小型トラクターは豆戦車相当であるがゆえに、軽戦車である軽トラクター(9 t程度)と並行開発がされたのであって、両車はそもそもカテゴリーが異なる(棲み分けがなされている)のである。つまり、小型トラクター=I号戦車は、軽トラクターの代替ではない。 また、I号戦車を軽戦車と捉えると、軽戦車であるII号戦車とカテゴリーが重複してしまうが、I号戦車の本質を豆戦車と捉え、II号戦車は開発中止となった軽トラクターの代替(そのポジション・ニッチを埋めるもの)だと考えれば、この両車もカテゴリーが異なる(棲み分けがなされている)わけである。 1930年は小型トラクターの仕様の議論に費やされた。当初の仕様では、重量は3 t、60馬力のエンジンを搭載、20 mm機関砲で武装する計画であった。 1931年6月24日に完成した小型トラクターのモックアップは、後のI号戦車とは著しく異なっていた。フロントエンジン・リアドライブ方式で(トランスミッションも前方配置)、全長は3460 mm、幅は1820 mm、重量は3.5 t(仕様書)、車体の装甲厚(仕様書)は、前/側面が13 mm、後面が10 mm、上/下面が6 mm、60馬力のクルップ社製水平対向4気筒空冷ガソリンエンジンで45 km/h(仕様書)、路上航続距離200 km(仕様書)。左右30度ずつの射角の20 mm機関砲はケースメイト前面右側に装備された。乗員は、車体後部の戦闘室に、左側前方に操縦手、右側後方に車長兼砲手の、2名であった。足回りは軽トラクターに似ていた。前後に長いことを除けば、後のポーランドのTKS 20 mm機関砲搭載型に似ていたと想像される。 ※蛇足だが、この小型トラクターのスペックは、後のヴィーゼル1 兵器運搬車(20 ㎜機関砲搭載型)と近似である。 しかし、L.S.K.と軽トラクターの試験により、フロントエンジン・リアドライブ方式の欠陥が実証され、1931年9月18日、陸軍兵器局第6課のハインリヒ・エルンスト・クニープカンプにより、フロントエンジン・リアドライブ方式での小型トラクターの開発は中止された。同日、リアエンジン・フロントドライブ方式での新しい小型トラクターの仕様が承認された。 この頃に、軽トラクターの発注が取り消されたのも、同様の理由だと考えられる。また、駆動方式の問題だけでなく、あたかも、戦艦ドレッドノートの登場のごとく、革新的なヴィッカース豆戦車/軽戦車の登場により、軽トラクターの設計(特に足回り。路上最高速度もわずか30 km/hと、1930年代の軽戦車としては、もはや遅過ぎる)が瞬く間に時代遅れになってしまったことも大きな原因であろう。 1931年、交通兵監のオズヴァルト・ルッツ(ドイツ語版、英語版)や、同兵監部主席参謀のハインツ・グデーリアンらによって将来の陸軍機械化構想がまとめられた。この構想では15トン級の主力戦車や、20トン級の支援戦車の2種が戦力の柱と位置づけられていたが、その開発にはなお長い時間が必要になると予想されたため、それまでの「繋ぎ」として、訓練用、生産技術習得を兼ね、軽戦車の開発が行われることとなった。そこで、クルップ社で開発中であった、小型トラクターに白羽の矢が立った。 クニープカンプの提案により、開発の参考用として、イギリスのヴィッカース・アームストロング社に、同社製軽戦車(ホルストマン・サスペンション導入前の、ヴィッカース Mk.I 軽戦車)の足回りを持つ、3輌の軽トラクターが、1輌目は1931年11月10日、2輌目は1932年9月12日、3輌目は同年10月11日に発注され、シリアルナンバー VAE 393・406・407 の各車が輸入された。1932年1月、VAE 393はクンマースドルフ試験場に到着した。 1932年5月5日、クルップ社は陸軍兵器局第6課に、新しい小型トラクターの基本仕様書を提出し、試作車1輌の製造契約が結ばれた。 1932年7月29日にクルップ社が完成させた、新しい小型トラクターの試作車台(試作1号車)は、イギリス製車両の設計(特にリーフスプリング・サスペンション)の影響を色濃く受け継いだものとなった。それは、イギリスの技術が混在した、小さなL.S.K.のような外見であった。 1932年8月15日から、クンマースドルフ試験場にて、小型トラクターの試作1号車の走行試験が開始された。 同年9月28日、小型トラクターの試作1号車と輸入軽トラクターとの比較走行試験が実施され、小型トラクターは路上最高速度40 km/hを発揮し、「カーデン・ロイド豆戦車よりも機動性が優れている」という評価を受けた。 試験の結果を基に、陸軍兵器局第6課は、1932年9月~1933年2月の間に、クルップ社に様々な改良を要求した。 1933年3月20日、陸軍兵器局第6課は、軟鋼製の増加試作車として、クルップ社に試作第2号車の、続いて同年5月10日、試作第3~6号車の、製造を発注した。 1933年7月1日、陸軍兵器局第6課から、主にクルップ社の他、技術習得のために、グルゾン製作所(クルップ社の子会社)、ヘンシェル社、MAN社、ラインメタル社、ダイムラー・ベンツ社の5社を含む、計6社に対し、小型トラクター150輌(1ゼーリエ)(Serie=英語でのシリーズ(series)にあたる)の生産が発注され、クルップ社が135両、他の5社が各3両ずつ、担当することになった。 小型トラクターの砲塔と戦闘室の設計は、クルップ社とダイムラー・ベンツ社の競作となり、ダイムラー・ベンツ社の設計案が採用され、2ゼーリエから搭載されることになった。 1933年12月から、車体上部構造物が無い車台のみの訓練用車輌(1ゼーリエ)の生産が始まり、続いて1934年7月から、戦闘室・砲塔を持つ戦車型(2ゼーリエ)の生産が開始された。なお、「1ゼーリエ」は「I号戦車A型」には含まれない。また、「2ゼーリエ」=「I号戦車A型」の生産は、上記5社によって行われ、開発メーカーであるクルップ社は加わっていなかった。 ヴェルサイユ条約によってドイツは戦車の生産を禁じられていたため、連合国に戦車であることを察知されないように、秘匿のため、「農業用トラクター」(Landwirtschaftlicher Schlepper、ラントヴィルトシャフトリッヒャー シュレッパー、 略号:La.S.)の偽装名称が、生産期間中は使用され続けた。 当初は、「機関銃装甲車」(Maschinengewehr Panzerwagen、マシーネンゲヴェーア パンツァーヴァグン)と呼ばれたが、1936年4月の再軍備宣言後に、Sd.Kfz.101の特殊車輌番号とともに、「I号戦車A型」(Panzerkampfwagen I Ausf. A、パンツァーカンプ(フ)ヴァグン アイン(ツ) アウス(フ) ウンク アー)の制式名称が与えられた。 ※ドイツ語の「Punkt」(プンクト)は「.」(点、ドット)を意味するが、繋げて読むと、前後の「p、プ」と「t、ト」をほとんど発音しないので、「ウンク」と聞こえる。 1936年6月までに、818輌のI号戦車A型が生産された。 I号戦車A型は、開発メーカーであるクルップ社製トラック用の改良型である空冷水平対向エンジン(57馬力)を搭載、車体構造は当時の主流であったリベット接合ではなく、溶接で組み上げられていた。MG13k機関銃を連装で装備する回転砲塔(砲は搭載されてないので、正確には銃塔である)は戦闘室の右寄りに搭載され、戦闘室左側に乗員乗降用のハッチを設けていた。足回りは参考としたヴィッカース社製トラクターのリーフスプリングを用いたボギーを踏襲していたが、4つの転輪を持つヴィッカース・トラクター(最後尾転輪が誘導輪を兼ねる)に対し、負荷の掛かる最前部にコイル・スプリングで独立懸架した転輪を追加、最後尾の誘導輪を兼ねる転輪は大径化し、さらに2組のボギー外側に補強用のガーダービームを追加した。履帯は高マンガン鋼製、シングル・ドライピン式スケルトン・タイプで、形状はヴィッカース社製ほぼそのままのコピーだった。 I号戦車は、容積の問題から砲塔内に収容できなかったので、車体内戦闘室右前部に、電撃戦の要である無線機(Fu.2受信機もしくはFu.5送受信機、通常はFu.2受信機)を、標準装備として備えていた。受信機は操縦手が無線手を兼任して操作した。各車は、戦闘指揮を専門とする「I号指揮戦車」の指示に従って、部隊全体で統一行動を行った。 生産されたI号戦車A型は早速部隊配備され、再軍備宣言をしたナチス・ドイツの軍事力をアピールする役を果たしたが、運用上では、エンジンの出力不足や過熱問題、走行安定不良などの問題点が浮上した。これらを解決するため、小型指揮戦車用に開発された、マイバッハ製エンジンを搭載した延長車体が戦車型にも採用されることとなった。 クルップ社とダイムラー・ベンツ社によって開発された、延長車体のI号戦車は、当初、従来型の「クルップ型 1A 農業用トラクター(1A La.S. Krupp)」に対し、「マイバッハ型 1B 農業用トラクター(1B La.S. May)」の秘匿名称が与えられていたが、後に「I号戦車B型」(Panzerkampfwagen I Ausf. B、パンツァーカンプ(フ)ヴァグン アイン(ツ) アウス(フ) ウンク ベー)の制式名称となった。 I号戦車B型は、A型では接地していた誘導輪を独立させて持ち上げ、転輪を1つ追加、同型の転輪2つずつをボギーで支える形式となった。これに伴い、上部転輪も1つ追加された。マイバッハ製水冷エンジンNL38TR(100馬力)への変更に伴い、機関室は前後に延長され形状も変化したが、車体前部、戦闘室、砲塔はごく細部の仕様変更を除き、基本的にそのままとされた。I号戦車B型は、A型の最終シリーズと並行して、「5aゼーリエ」「6aゼーリエ」として生産に入り、1935年8月から1937年6月にかけて675輌が生産された。「I号戦車B型」の生産は、上記6社からクルップ社とラインメタル社を除いた、グルゾン製作所、ヘンシェル社、MAN社、ダイムラー・ベンツ社の4社によって行われた。
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開発と生産
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「T-20 (装甲牽引車)」の記事における「開発と生産」の解説
開発を行ったのはモスクワ郊外のG.K.オルジョニキーゼ名称・第37工場で、同工場はビッカース水陸両用戦車を範としたT-37、T-38の開発・生産を手掛けており、T-20は足回りの部品の多くを、これら水陸両用軽戦車から流用して作られた。 第37工場のほか、エンジンを供給したゴーリキー自動車工場(GAZ)、スターリングラード・トラクター工場(STZ)で、1937年から1941年まで、8000両近くが量産された。
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開発と生産
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第一次世界大戦後、ルノー FT-17 軽戦車を基にしたフィアット3000 軽戦車が、イタリア戦車の大半を占めていたが、イタリア半島北部の山岳地帯だけでなく、北アフリカの広大な砂漠も巡回する必要があったイタリア陸軍にとって、鈍足なフィアット3000は理想的ではなかった。1920年代後半までに、イタリア陸軍が活動する全ての地形で運用可能な、高速の装甲車の必要性が確認された。 1929年、ウーゴ・カヴァッレーロ(Ugo Cavallero)将軍の主導により、イタリアはイギリスから数輌のカーデンロイド Mk.V*とMk.VIを輸入。試験の後、C.V.29の名称で、21輌のMk.VIの完成品を輸入+Mk.VIのライセンスを得て、4輌をイタリア国内でノックダウン生産した(C.V.29は計25輌)。C.V.29について、「4輌を輸入し、21輌をライセンス生産した(この説ではC.V.29は21輌)」と、間違って逆に書かれていることがある。さらに、C.V.29を基に、独自の発展型がフィアットとアンサルドによって開発され、フィアット=アンサルドC.V.33(もしくはCV33、C.V.3/33)として制式採用された。開発者はアンサルド社の主任戦車設計者である、ジュゼッペ・ロッシーニ。 C.V.33は、カーデンロイド Mk.VIおよびC.V.29同様の無砲塔・2人乗りの豆戦車だが、車体は完全に新設計の、それらよりも大幅に延長されたものとなった。カーデン・ロイド Mk.VIの初期の無蓋の戦闘室は、着席した乗員の肩の高さまで装甲板があるのみで、後期のタイプやC.V.29ではこれに四角錐台型の装甲フードを付けた。これに対し、C.V.33では戦闘室が増積され、上面には2つの平板なハッチを持つ。また乗員の配置はC.V.29までとは逆に、右が操縦手、左が車長兼機銃手となった。前に起動輪、後ろに誘導輪がある、リアエンジン・フロントドライブ方式である。エンジン室のデザインはその後のL6/40軽戦車やM11/39以降の中戦車でも踏襲された。 1935年には、小改良型であるC.V.35が登場する。C.V.33では戦闘室の組み立ての一部に溶接が用いられていたが、イタリア(のみならず1930年代当時はほとんどの国が同様であった)では溶接技術が未熟だったので、C.V.35では全面的に堅実なリベット接合に変わっている。 武装はC.V.33の初期生産型(セリエ I。セリエは英語でのシリーズ(series)にあたる)ではフィアット レベリM1914 6.5mm重機関銃1挺(試作車では水冷式、以後の量産車では空冷式)、後に8mm重機関銃(フィアット レベリM1935重機関銃またはブレダM38車載機関銃(ブレダM37重機関銃の車載型)2挺となり(セリエ II)、これがC.V.35まで標準となった。その他、ゾロターン S-18 20mm対戦車ライフル(資料によっては、全自動の「S-18/1100」、もしくは、半自動の「S-18/1000」、と異なる)を搭載した対戦車型、火炎放射型などのバリエーションも作られた。 1938年には、トーションバー・サスペンションを使った足回りを持ち、マドセン7mm機関銃2挺もしくはブレダM31 13.2mm重機関銃(原型はオチキスの海軍艦艇向け装備)1挺もしくはブレダM35 20mm機関砲1門を搭載する改良型、C.V.38が登場するが、これはごく少数が作られたのみに終わった。 各タイプを合わせた生産数は2,000輌を越え、これはカーデン・ロイド豆戦車の海外での発展型の中では、フランスのルノー UE牽引車、ソ連のT-27に次ぐ大量生産であった。
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開発と生産
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ポーランド軍は1928年、半装軌車式のwz.28装甲車を制式化、その配備を進めたが、性能的には満足のいくものではなかった。そのため、新たな装甲車が開発されることになった。 新型装甲車は、軍の研究所の技師、ルドルフ・グンドラフ中尉が中心となって開発された。シャーシには、ワルシャワのウルスス製作所で作られていた、イタリア製SPA 25/Cトラックのライセンス生産型、ウルススA型トラックのものを強化して使い、これに砲塔付きの装甲ボディが載せられた。軟鉄製の試作車両による試験の後、1929年11月、この車両はwz.29装甲車として採用され、CWS社において生産が行われた。 武装は砲塔にピュトー37mm半自動砲SA-18とオチキス7.92mm機関銃wz.25を2丁、車体後部にもオチキス7.92mm機関銃wz.25を1丁装備していた。ただし、砲塔の2つの銃架のうち対空用に斜め上に付けられたものは効果的ではなく、後にここの機銃は装備されなくなった。 生産やメンテナンスのしやすさというメリットはあったものの、元が後輪駆動のトラックのシャーシであるため不整地走行能力や速度は低く、大きさの割に車内は狭く、第一次大戦時代のままの武装は採用時にすでに時代遅れだった。当時の流行に則り後進用の操縦席も備えていたが、後進は1速だけだった。これらの理由から発注は10両にとどまり、1931年に生産は終了した。
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開発と生産
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アンリオ社は戦前、一連の先駆的な単葉機を作り上げたが、1916年、HD.1を送り出す前にはイギリスのソッピース社のライセンス生産会社となっており、有名なソッピース 1½ ストラッターの生産を行っていた。 HD.1 は、明らかにソッピース機の特徴を受け継いで作られた戦闘機で、頑丈だが軽く、簡潔なラインと低い翼面荷重を持っていた。特に胴体上で上翼を支える支柱は、ソッピース 1½ ストラッターの名称の由来となった、長い支柱と短い支柱を組み合わせた(正面から見て)W字の形式が踏襲されていた。一方、“本家”であるソッピース社が同時期に製作したソッピース キャメルとは逆に、独自の特徴として、下翼は水平で上翼にのみ顕著な上反角を付けており、操縦士の視界をよくしていた。 110馬力の「ル・ローン」ロータリー・エンジンを搭載し、目覚しく早いとは言えないものの、運動性は高く、操縦士にとっては安全で飛ばしやすい飛行機であった。ただし、同時期のより強力なエンジンを積んだ機体と競り合える上昇性能と高空性能を持たせるためには、搭載するヴィッカース機銃は1 丁に限らなければならなかった(実際には、性能低下と引き換えに2丁を積むこともあった)。機銃は左舷にオフセットされて装備されており、不時着の際に操縦士が銃尾に頭を打ち付けずに済んだ。ただし、HD.1 を多用したイタリア航空隊では、中央に装着する方を好み、後にはベルギー航空隊でも中央装備を採用した。 少数の機体は特別装備として、対飛行船/対観測気球攻撃用に主翼支柱へ計8発のル・プリエールロケット弾を装備可能である。 イタリアでは、ヴァレーゼのニューポール・マッキ社において、1917年から1919年の間に約900機がライセンス生産された。
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開発と生産
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「巡航戦車 Mk.II」の記事における「開発と生産」の解説
中戦車A9(後の巡航戦車 Mk.I)の開発計画が始まったわずか3ヵ月後の1934年5月、A10計画がスタートした。歩兵支援用に、より重装甲の戦車の開発を求められたヴィッカース社のサー・ジョン・カーデンは、手っ取り早くA9の装甲強化によって応えた。装甲はA9の最大14mmに対し、当初24mm、最終的に30mmまで増厚されたが、その増厚は、追加装甲を基本車体に鋲接する方法が採られた。厚い一枚板の装甲板を使うよりも製造が容易で、上質な装甲鋼板の節約にもなったが、防御力は一枚板のものより劣った。 しかし、A9、A10の一方で、兵器局のエリス少将は、歩兵支援用の戦車は予想される敵対戦車砲に耐える装甲厚が必要とし、同じくヴィッカース社に小型・重装甲のA11(後の歩兵戦車 Mk.I マチルダ I )の開発を指示していた。A11は当時最新鋭のイギリスの2ポンド砲に耐えることを目標に、最大60mmを超える装甲厚を備えていた。さらに1936年には、イギリス陸軍は、主力となる戦車を軽装甲・高速の巡航戦車、重装甲・低速の歩兵戦車の2種に分けて開発を行うとの決定を下した。A9に比べれば装甲が強化されたとはいえ最大30mmの装甲しか持たないA10は、結局、A9を補佐する「重巡航戦車」として生産されることとなった。 A10は巡航戦車 Mk.IIとして制式化され、1938年中に最初の発注が行われた。この間、本命の巡航戦車としてはアメリカのクリスティー式戦車をもとにしたA13(巡航戦車 Mk.III)も開発されており、A9、A10はそれらの数が揃うまでの“つなぎ”という位置付けであった。ただし、A10量産車の引渡しが始まったのは1939年末で、A13よりもむしろ遅かった。 A9では操縦席の左右に.303 ヴィッカース機関銃を備えた銃塔があったが、A10では除去された。試作車A10E1は当初、中央に突出した操縦手フード以外は、よく傾斜した前面装甲を持つ車体形状であった。しかし、やはり車体銃は必要と判断され、操縦席をわずかに左に移動、右に車体銃を備えた垂直の戦闘室前面形状に改められた。これに伴い、乗員も当初の4名から5名となった。車体銃には、.303 ヴィッカース機関銃に代わり、チェコ製ブルーノVz.37重機関銃(ZB.53)のライセンス生産型である、空冷のベサ機関銃が選ばれた。しかし、砲塔の同軸機銃は.303 ヴィッカース機関銃のままで、弾薬も共通ではなかったので、結局、当初生産型は車体銃を搭載しないままだった。後に砲塔の機銃もベサに改められ、これには巡航戦車 Mk.IIAの形式名が与えられた。また、同時期の他のイギリス戦車同様、3.7インチ榴弾砲搭載のCS(近接支援)型も作られた。 生産は、イギリスの戦車生産工場育成策に則り、開発会社のヴィッカース社で生産されたのは10両のみで、45両がメトロポリタン・キャメル社(Metropolitan-Cammell)、120両がバーミンガム・レールウェイ・キャリッジ・アンド・ワゴン社(Birmingham Railway Carriage and Wagon Company)で行われた。うち、30両がCS型であった。
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開発と生産
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「アルバトロス D.V」の記事における「開発と生産」の解説
1917年4月、アルバトロス社はIdflieg(Inspektion der Fliegertruppen、航空部隊監察局)からD.IIIの改良型の製作を命じられた。試作機はその月の下旬に初飛行した。 新型機D.Vは、D.IIIによく似ており、同じ170馬力のメルツェデスD.IIIaエンジンを使用していた。最も顕著な違いはD.IIIよりも32 kgも軽くなった楕円形断面の新しい胴体であり、その両側には縦通材が増設されていた。試作型のD.Vはヨハニスタール工場製のD.IIIと同じ標準的な方向舵を持っていたが、生産型は東ドイツアルバトロス(Ostdeutsche Albatros Werke(OAW))製のD.IIIに装備された大型の方向舵を使用した。D.Vもまた、大きなスピナーと腹鰭が外観上の特徴であった。 D.Vの上翼は胴体に12 cm近づけられ、また下翼はフェアリングなしで胴体に取り付けられていた。翼自体は、補助翼操作用のケーブルの取付が修正されたほかは標準的なD.IIIとほとんど同一であった。この理由から、Idfliegは胴体の構造試験は行ったが翼には行わなかった。 D.Vの初期型は大きなヘッドレストを特徴としていたが、これはパイロットの視界を妨げるという理由から実戦部隊では外されることが多かったため、結局生産型からも除かれることになった。パレスチナ方面に配備される機体には、高温環境に対応するため、翼面ラジエターが2基装備された。 Idfliegは1917年4月に200機のD.Vの生産契約を締結したが、さらに5月に400機、7月に300機の追加発注を行った。初期のD.Vは、シュナイデミュール工場が1917年の最後までD.IIIの生産を続けたため、ヨハニスタール工場のみで生産された。
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開発と生産
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レンナー社はセイヨウシデ(英語版)材の使用に精通しており、木材の乾燥を行う。調整済みの木材はさらに加工される。ゲルトリンゲン工場では原木が加工される。モイゼルヴィッツ(英語版)工場では、アップライトピアノおよびグランドピアノのアクションが組み立てられ、ハンマーヘッドが生産される。
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開発と生産
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日本海軍は、横廠式ロ号甲型水上偵察機の後継機として1921年(大正10年)に新たな水上偵察機の開発に着手した。折り良くフェリックストウ F.5飛行艇のライセンス生産に来日していたショート社のフレッチャー技師に設計を依頼し、またこれに横須賀海軍工廠の技師を補佐につけて1923年(大正12年)に2機の試作機が完成した。このフレッチャー技師の設計した複座の機体は十年式水上偵察機と呼ばれ、日本製では初めて尾部フロートを廃したロングステップの双浮舟式の水上機となった。しかし重量過大で所期の性能に達せず、翌年に改良型(十年式水上偵察機A型)が製作されたが、これも不採用となった。 さらに1925年(大正14年)志村喜代作少佐と橋本賢輔技師により十年式水上偵察機B型が試作され、海軍はその性能について見込みがあるものとし改良を継続させ、同年末には満足のいくものとなったことから、翌1926年(大正15年)1月に一四式水上偵察機 (E1Y)として制式採用した。一四式水上偵察機の生産は愛知航空機及び中島飛行機も加えて行われることとなった。 木製骨組に羽布張りの機体の双フロート式の水上機で当初は複座だったが、後に三座に改められた。ロレーヌ400馬力発動機(ロレーヌ 12D(イタリア語版))水冷V型12気筒装備の1号(E1Y1)、ロレーヌ二型450馬力発動機(ロレーヌ 12E)水冷W型12気筒エンジン装備の2号(E1Y2)の二種があったが、後継機難のため1931年(昭和6年)にはロレーヌ三型450馬力発動機を減速機付に、プロペラを4翅にし、各部を再設計した3号(E1Y3)が生産されている。一四式三号に改良された際に、それまでの2座から3座となって乗員が1名増えた。 一四式水上偵察機は横須賀海軍工廠の他愛知航空機、中島飛行機で320機生産されたが、この内の約4分の3が愛知製であった。 航続距離が長く安定性も優れていた為実用性は高く、艦載、基地用として日支事変初期まで広く使われた。第一線を退いた後は練習機として使用された他民間にも払い下げられ、民間機となった物の内には後席をキャビン式にして3~4名を乗せられるように改造された物もあった。
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開発と生産
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イギリス陸軍は1920年代、当時としては機動性の高いヴィッカース中戦車 Mk.I、Mk.IIを開発・装備していた。その後継として、A6(16トン戦車)とその改良型のヴィッカース中戦車 Mk.IIIが開発されたが、これらは世界恐慌のあおりで採用は見送られた。 A9は当初、A6や中戦車Mk.IIIを補佐する近接支援車両として1934年初めに企画されたが、Mk.IIIの採用が見送られた後、それらに代わる廉価版の中戦車として、本命の後継車両となった。近接支援車両としては3.7インチ榴弾砲の搭載が予定されていたが、1934年11月、主力戦車として最新の2ポンド(40mm)戦車砲搭載が決定された。ただし、3.7インチ榴弾砲搭載の支援型も並行して少数が作られることとなった。 A9は、これに先立つ中戦車Mk.IIIに比べ軽量・安価で、エンジンも既存の市販モデルが使用されることとなっていた。ヴィッカースでは当初、ロールス・ロイス「ファントムII」エンジン(120馬力)を搭載するつもりであったが、開発中に車重が約10トンから12トン以上へと増加したため、ロンドンの2階建てバスに使用されていたAECエンジン(150馬力)へと変更された。 試作車は1936年春に完成したが、この車両は、当時としては画期的ないくつかの特徴を持っていた。車体は地雷の爆発に対して耐性の高い船底型の底面を持ち、砲塔は、同じくヴィッカース社が手がけていた爆撃機用動力銃座の技術を応用し、世界初の動力旋回装置を備えていた。ただしこの旋回装置は油圧式で、後のイギリス戦車はより安全性の高い電動式に改められた。 サスペンションはヴィッカース「スローモーション」タイプと呼ばれるもので、これ以前に開発者のサー・ジョン・カーデンが手掛けたヴィッカース軽戦車系列、キャリア系列に用いられていたものの強化型であった。軽戦車系列では2輪1組であったボギーは3輪1組となり、24インチの大型転輪1つと、より小径の19.5インチの転輪2つが組になるという独特のスタイルで、このボギーが片側2組ずつ装着された。この形式は、後の発展形バレンタイン歩兵戦車でも用いられた。 一方で、いくつかの技術的問題も指摘された。ブレーキドラムの欠陥、サスペンションのピッチング、履帯の脱落しやすさなどである。これらは生産開始までにある程度改善されたが、いくつかは解決されずに残った。また、主砲塔に加え、車体前部の操縦席左右には、開発者サー・ジョン・カーデンのたっての主張により、ヴィッカース.303機銃装備の銃塔が1つずつ搭載されたが、もともと小柄な車体にそれぞれ選任の銃手を配置したため、乗員は6名と多く居住性は悪化、また給弾ベルトのために銃塔の旋回は限定された。 こうしてA9の開発が進められていた1936年、イギリス陸軍は、主力となる中戦車を軽装甲・高速の巡航戦車、重装甲・低速の歩兵戦車の2種に分けて開発を行うとの決定を下した。この新方針に基づき、A9は巡航戦車に分類されることになり、巡航戦車 Mk.Iとして制式採用された。ただし、これはあくまでA9が単に軽装甲であったためで、先述の「スローモーション」サスペンションは安定性は高いものの高速走行には不向きであり、エンジンも非力であった。したがって、A9を採用する一方で、より「本格的」な巡航戦車として、アメリカのクリスティー式戦車をもとにしたA13(後の巡航戦車 Mk.III)が新たに開発されることとなった。 1937年、巡航戦車 Mk.I は125輌が発注され、50輌がヴィッカース社で、75輌がハーランド・アンド・ウルフ社で生産された。少数は3.7インチ榴弾砲搭載の近接支援(Close Support)型、Mk.I CSとして組み立てられた。
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