開発と生産とは? わかりやすく解説

開発と生産

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T-72」の記事における「開発と生産」の解説

1960年代ソ連T-64新たな主力戦車として配備進めていたが、当時最新技術詰め込んだ結果、5TDFディーゼルエンジンをはじめ自動装填装置不具合など多く問題点露見、そして、最大問題生産コストの高さであり、充分な数を配備することが厳しい状態だった。 こうした中、T-64よりも堅実安価な戦車開発が、1967年からT-62の車体ベースとした「オブイェークト172」として始まり、「オブイェークト172M」としてプロトタイプ完成した1971年-1973年にかけ各種試験経て正式にT-72として採用され1974年よりチェリャビンスク・キーロフ戦車工場にて、従来T-55およびT-62の生産ラインから全面的に切り替えられ生産開始された。 T-72は、旧共産主義圏にて、1970年代からソビエト連邦の崩壊1991年までもっとも多く使われ戦車であり、ソ連国内主力工場であるウラル車両工場だけでも1990年までに22096両が生産された。ポーランドチェコスロバキアインドユーゴスラビアでもT-72M等のダウングレード版(いわゆるモンキーモデル)がライセンス生産され、総生産数各型合わせて30000両を超えるとされるポーランドチェコスロバキアライセンス生産されたT-72Mは、砲塔前面装甲複合装甲から単純な鋳造装甲ダウングレードされるなど性能意図的に引き下げられていた。ソ連でも1990年までに自国製の輸出用モデル開発されアラブ諸国中心に大量輸出した。これもやはり装甲砲弾威力などが大幅スペックダウンしたモンキーモデルであった。[要出典] ワルシャワ条約機構加盟国以外にもフィンランドやイラン・イラク・シリア・リビアなどの親ソ中東諸国にも輸出された。80年代にはイラク対しチェコポーランドソ連T-72完成品輸出した。後には、半完成部品ノックダウン生産イラク組み上げ中国製部品改造行い国産戦車自称してバビロン獅子英語版)と命名された。またイラン・イラク戦争使用した直輸入T-72砲身寿命短くソ連からの交換部品供給滞ったことから、イラク国内砲身工場作ることになり、これがライセンス生産化の始まりであったという。なお、ユーゴスラビア型のM-84はクウェート輸出され湾岸戦争で対イラク戦に使用され、後にイラク戦争後新生イラク軍イラク治安部隊)にも導入されている。 ソ連においては1974年配備始まった初期型から数多く改修実施されている。初期生産されモデルステレオ測遠器を装備していたが、1978年から生産されたT-72Aでレーザー測遠器が装備され砲塔複合装甲採用された。1985年から生産されたT-72Bでは主砲から対戦車ミサイル発射可能となり、エンジン840馬力のV-84に換装された。1980年代にはリアクティブ・アーマー追加された。ソ連崩壊後しばらくはロシア深刻な財政難から改修滞っていたが、プーチン政権下での経済回復に伴い2012年より大幅な近代化図られたT-72B3への改修進んでいる。 旧ソ連構成諸国旧東側諸国ではそれぞれの生産技術元に数多くバリエーション開発しており、自国生産したオリジナルタイプの輸出から既にT-72購入した国への改修パッケージキットの販売など、その販売形態広がっている。T-72自体長期渡り多く国々供給されたこともあり、ソ連から独立した諸国にとっては現在でも魅力的な軍事マーケットとなっている。

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九〇式三号水上偵察機」の記事における「開発と生産」の解説

一四式水上偵察機生産開始され間もない1927年昭和2年)に海軍一四偵の後継機の開発愛知航空機中島飛行機及び川西航空機の3社に対し指示したまた、これとは別に海軍直轄として横須賀海軍工廠対し一四二号偵改一Cとして試作を行わせた。横須賀海軍工廠では佐波次郎少佐設計主務者として、一四式水上偵察機を基に作業開始し翌年8月ブリストル ジュピター発動機または、九一液冷500馬力発動機搭載した試作機2機が完成した。 これに対し愛知航空機始めとする各社複座水上偵察機試作設計方に注力するため辞退する結果となった。 名前は一四式であるが鋼管溶接構造胴体後半部細くして後下方銃座設け主翼尾翼再設計されており全く別の機体と言っても良かった。そして水冷エンジンロレーヌ450馬力発動機ロレーヌ 12E)を装備した一四二号改一C、ジュピターF8戻し機首延長した一四二号改一Dを経て[要出典]1932年昭和7年4月九〇式三号水上偵察機として制式採用され、量産川西航空機担当した最大速度一四二号偵と大差がないが、武装前方固定機銃2挺、後方旋回2挺に爆弾250kgまでと格段に強化されているのが大きな特徴である。初期生産型では発動機ジュピター搭載していたが、後期生産型には九一500馬力発動機搭載された。川西発動機九一500馬力発動機換装した後期生産型最大速度が185km/hに、3,000mまでの上時間25分に短縮している。[要出典] しかし開発時間をかけながら大幅な向上が認められず、さらには後継機となった七試水上偵察機(後の九四式水上偵察機)の開発が順調であったため、生産機数17機に留まった。

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マウルティア」の記事における「開発と生産」の解説

1941年から1942年にかけ、東部戦線ドイツ軍は、初冬春先泥濘悩まされることになる。通常の軍事行動もちろんのこと前進した部隊への補給もままならなくなりかろうじてハーフトラック類だけがある程度行動が可能であった。しかし、ナチス・ドイツ当初から軍用開発していたハーフトラック高価なため補給任務使用するには不経済な上、数も足りなかった。 それに代わって戦争中以降多用されるようになったのが、既存トラックベース製作され簡易ハーフトラックマウルティアである。1942年オペルフォードドイツフォード)、マギルスKHD各社に、それぞれの3トントラックをベースとした車両Sd Kfz 3 の型式名発注され同年末から生産開始された。 マウルティアは、基本的に既存トラック後輪部分装軌式改修したもので、装軌式足回りさまざまな型式が試みられたが、3トントラック・ベースのものでは、イギリス軍から鹵獲したユニバーサル・キャリアもしくはカーデンロイド軽戦車系列から部品流用し開発されたものが生産型基本形式となった転輪サスペンションはほぼカーデンロイドのままで、履帯は、これもカーデンロイド軽戦車用のコピーであるI号戦車同型式のものが使われた。 オペルマウルティアは「ブリッツ」の名で有名な 3.6-36S をベースとし、型式名Sd Kfz 3aフォード製は V3000S がベースSd Kfz 3bマギルス製は S3000 がベースSd Kfz 3c型式名特殊車輌番号)で、各社合わせて2万両を超える量産が行われた。中でもフォード製の生産台数が最も多く、14000両近く達したオペル製は約4000両、マギルス製は約2500であったまた、マウルティア4.5トンメルセデス・ベンツL4500Sをベースしたもの作られた。L4500Sベースマウルティアメーカー側呼称はL4500R、特殊車輌番号当初 Sd kfz 4だったが、後に Sd Kfz 3/5改められた。大型車体合わせ足回り基本的に II号戦車から流用したものが使われていたが、起動輪は専用のものとなっていた。L4500Rは重国防軍牽引車sWS)の生産軌道にのるまでの代替として、1943年から1944年にかけて1480両が生産された。 1943年4月には、オペルマウルティアベース装甲施しロケットランチャー搭載したパンツァーヴェルファーと、その弾薬運搬車製作された。 しかし、東部戦線悪路は、場所によってハーフトラックでも走破困難な場合もあり、全装軌車のRSOトラクター開発されている。

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TACAM R-2」の記事における「開発と生産」の解説

1942年から1943年にかけて開発製作され対戦車自走砲TACAM T-60引き続き、もともとルーマニア軍保有していたR-2の対戦車自走砲化が図られることとなった。 R-2は戦前チェコから126両が輸入されルーマニア軍主力戦車として使用されていたが、その軽装甲(最大25mm)と弱武装(37mm戦車砲)では強力なソ連戦車太刀打ちできないことが明らかになっていたためである。 1943年春に出され要求に基づき開発TACAM T-60同様、コンスタンチン・ギウライ中佐中心とするチームが行い、7月から9月にかけてブカレストのレオニダ製作所試作車両1両が製作された。 評価試験結果シルエットの高さの欠点はあるものの、元のR-2に比べ充分に有効な兵器であると判断され1944年2月40両のR-2の自走砲化決定した。なお、試作車両はTACAM T-60同じく76.2mm野砲1936年型(F-22)が使われていたが、生産型では、より新型の76.2mm野砲1942年型(ZIS-3)が搭載されることになった最初20両のR-2が部隊から引き上げられ1944年2月から6月の間にレオニダ製作所改装作業が行われた。新型砲を搭載した生産型TACAM R-2は、鹵獲したT-34への射撃試験結果、砲に合わせて国産された徹甲弾使って500mの距離で貫徹可能であった。 しかしこの頃には、ソ連軍はより重装甲IS-2重戦車なども投入し始めており、1944年7月残り20両の改装取り止めとなった改装は、基本的にR-2の車体そのままで、車体戦闘上面装甲のみを除去操縦席上部のみに新たな装甲板載せその上に砲を搭載した新たな戦闘室は、前側面と上面半分のみに装甲を持つ開放式で、側面装甲すぐ内側砲弾ラックとなっていた。新設戦闘上部装甲には、TACAM T-60同様、やはり鹵獲されたBT-7などの車体装甲板再利用された。

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TACAM T-60」の記事における「開発と生産」の解説

1941年夏に始まったバルバロッサ作戦への参加により、ルーマニア軍自国兵器T-34KV-1などのソ連戦車にまったく歯が立たないという深刻な問題直面することになったルーマニア工業力では即座にこれに対抗する兵器の開発は無理で、そのため、ソ連からの大量鹵獲兵器有効活用することになった開発担当したコンスタンチン・ギウライ中佐は、スペアパーツ豊富にあったT-60軽戦車ベースに、76.2mm野砲1936年型(F-22)を搭載するオープントップの対戦車自走砲作り上げた戦闘前側面の装甲板は、ルーマニア国内で上質な装甲鋼板供給望めなかったため、やはり鹵獲したBT-7車体再利用された。 完成した自走砲は、TACAM T-60(Tun Anticar pe Afet Mobil T-60、T-60車体対戦車自走砲)と名付けられた。 改装ブカレストのレオニダ製作所行われ1943年1月1号車完成したのに続いて6月末までに計17両、年末までに残り17両が完成した改装はT-60軽戦車戦闘上面取り除き、ほぼ車体中央上部に76.2mm野砲搭載前後面のみを装甲板カバーした側面装甲後半部左右に開くことができるようになっていた。車内狭さから、フェンダー上や車体後部上面後面工具箱弾薬箱増設された。元が鹵獲兵器であるため、使用されたT-60車体ソ連生産工場製のものが入り交じっていた。

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ランチア IZM」の記事における「開発と生産」の解説

ランチア IZ トラックベース開発されランチア IZMは、当時としては先進的なデザイン持った装甲車であった回転砲塔に2挺、車体後部に1丁の機銃備え後期の型はさらに砲塔上部にも機銃装着当時としては強力な火力備えていた。 第一次大戦中の戦訓により、車体上部には、ワイヤー切断用のレール装着された。ランチア社により、1918年中に120両が生産された。

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AB 41 (装甲車)」の記事における「開発と生産」の解説

イタリア陸軍は、スペイン内戦や、北アフリカ東アフリカでの植民地での戦闘経験から、路外機動性の高い装甲車求めていた。フィアット・アンサルドはこれに応え1938年木製モックアップ経て1939年5月、ABM1と呼ばれる試作車完成させた。 その後試験改良経て同車はAB 40(Autoblindo=装甲車40年型)として採用され1940年10月から量産開始された。 車体圧延鋼板リベット接合で、避弾経始考慮し傾斜装甲取り入れられていたが、車体前・側面で9mm砲塔前面で18mmと、比較軽装甲であった後進用に戦闘後部後ろ向きの副操縦席設けられているのはこの時代装甲車としては一般的で、その隣には防御用に後方車体銃が設けられていたが、これは背の高いエンジン室に遮られ射界限られたのだったまた、戦闘室とエンジン室の間には隔壁がなく、このため熱気騒音車内居住性よくなかった足回り4輪駆動独立懸架4輪操舵で、車体中央置かれデファレンシャルから X 字形4輪駆動軸伸ばした独特の機構であった。この機構のため、各車輪サスペンション作動自由度高く、高い不整走行性能発揮させることができた。ただし、ギア部が複雑になり整備難しく、また高速走行時車輪がぶれる難点もあった。この走行装置は、後に北アフリカ砂漠戦用に開発された非装甲高機動車輌、カミオネッタ・サハリアナ42(AS 42)にも流用された。 車体左右中央部には、埋め込み式にスペアタイヤ置かれ起伏大き不整地で車体中央接地するのを防ぐ役も担った初期の生産車は砲塔ブレダM38車載機関銃連装備えるだけだったが、この仕様生産車少数留まり1941年からはL6/40軽戦車と略同型砲塔ブレダ20/65 20mm機関砲搭載した型へと生産切り替わり、これが主量産型となった。20mm砲搭載型も当初は同じAB 40の名称だったが、1942年にAB 41の別名称が与えられた。 AB40/41は、騎兵部隊自動車化歩兵部隊機甲師団偵察部隊軍警察部隊などに配備され第二次大戦通して戦線使用された。

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L6/40」の記事における「開発と生産」の解説

1930年代イタリアはL3豆戦車開発量産して装甲部隊基礎築いたが、無砲塔軽装甲・弱武装のL3は、偵察用としても力不足なのは30年代末にすでに明らかであった。 フィアット・アンサルド社では、L3を拡大発展させた輸出用戦車として1936年より5t軽戦車試作していたが、最初試作車は無砲塔車体左側37mm砲を搭載2つ目の試作車車体37mm砲に加えて砲塔8mm機銃連装搭載3つ目の試作車砲塔37mm砲を備えていた。この5t軽戦車試作3号車原型となり、L6軽戦車開発された。 L6車体基本的デザインは、砲塔を持つほかはほぼL3豆戦車のままで、ただし足回り機構一新転輪2個のボギー2組を、長大スイングアームを介してトーションバー・サスペンションで懸架した。接地長を稼ぐため、後部誘導輪接地する型式であったL6に先だって採用されM11/39中戦車足回りリーフスプリング型式で、その後量産されイタリア中戦車重戦車はすべて同型式を踏襲したので、結果的にL6イタリア戦車中最も特徴的な足回りを持つことになった試作時には武装が決まらず暫定的に砲塔ブレダM38車載機関銃連装搭載したが、生産型では、試作車比べ大型化した砲塔ブレダM35 20mm機関砲搭載された。この砲塔設計同時期に作られたAB41装甲車にも流用された。 なお、5t軽戦車試作同時期の1937年に、スペイン国民戦線では、L3/35を基に、「C.C.I. Tipo 1937」(1937年歩兵戦車)という、ブレダM35 20mm機関砲旋回砲形式搭載した軽戦車試作された他、ドイツから供給されI号戦車A型4輌が砲塔ブレダM35 20mm機関砲搭載するよう改造されている。 L6はL3の代替として開発されたものの、生産結局開戦後1941年からとなり、この時にはすでに能力的に見劣りするものとなっていたため、生産は翌1942年末で打ち切られその後セモヴェンテ da 47/32自走砲用に車台のみが1943年まで生産された。L6は主に偵察任務騎兵師団配備された他、ドイツ軍対パルチザン戦使用した残存し車輛イタリア軍によって1950年代初頭まで使用された。

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ニムロード (自走砲)」の記事における「開発と生産」の解説

トルディ軽戦車として採用ライセンス生産したL-60軽戦車続いてハンガリー陸軍同じくランズベルク社製のL-62自走砲ライセンス購入した。 L-62自走砲は、エンジントランスミッションサスペンションなど多くコンポーネントがL-60軽戦車と共通であり、また搭載砲のボフォース40mm機関砲も、すでにハンガリー国内ライセンス生産が行われていたので、国産化するには非常に都合のよい車両であった車台形状はL-60/トルディ軽戦車とよく似ているが、大型の砲を搭載するために全長全幅とも拡大されており、転輪似た形状を持つものの小径で、片側5つ増やされている。 国産化にあたり操作性上のため、若干砲塔大型化されるなどの改良が行われ、「40Mニムロード対戦車対空自走砲」(40M Nimródncélvadász és légvédelmi gépágyú)として制式採用された。 第1生産ロットニムロード I)は46両、第2生産ロットニムロード II)は89両で、マーヴァグ社において計135両が生産された。第1ロットニムロードは、ドイツのビュシングNAG社製エンジン搭載。第2ロット国産ガンズ社製エンジン搭載した。 もともと対戦車自走砲としての役割期待して採用であり、実際に当時ハンガリー軍主力であったトルディ軽戦車や、40mm砲搭載型のトゥラーン中戦車よりもその砲は強力だったが、T-34などのソ連戦車には太刀打ちできず、実戦では、地上目標軽装甲車両までで、もっぱら防空用途使用された。

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スベンスカ ヤクトファルク」の記事における「開発と生産」の解説

第一次世界大戦が終わると、いくつかの航空機製造社が開業された。このうちのスヴェンスカ社が自主開発したのがヤクトファルクである。同社スウェーデン航空委員会戦闘機についての指針要望問い合わせたが、何ら返答もなかったために、スヴェンスカ社は何らかの手引を得るために国外設計調べたヤクトファルクアームストロング・シドレー製のジャガー9気筒星型発動機搭載した標準的な複葉機である。固定脚で尾部の下には付けられ胴体は木金混合構造合板と布張りである。機首尾部アルミニューム板金覆われている。燃料タンクエンジン操縦席の間にあり、満載2.5時間飛行が可能である。 スウェーデン空軍テストパイロットのニルス・ソーダバーグ(Nils Söderberg)がバルカビイ(Barkarby)空軍基地試作機試乗行った試乗後に彼は「これは私が乗った飛行機の中で最も素晴らしい」と述べている。 1929年11月11日ヤクトファルク当局の代表と記者公開された。スウェーデン航空当局は3機のヤクトファルクと3機の英国ブルドッグ戦闘機比較試験のために発注した試作機1930年1月9日スウェーデン空軍納入されJ 5命名された。スウェーデン航空委員会ブリストル製のジュピター発動機空軍標準発動機とすることを決定していた。そのため、設計者のカール・クリーメンス・ビュッカー(Carl Clemens Bücker)は新し発動機搭載させるため発注されていた2機の胴体改造余儀なくされた。これらの機体ヤクトファルクⅠと命名された(またはスウェーデン空軍命名J 6)。1930年にはジュピター発動機搭載の5機が追加発注された。テスト飛行の際に強い振動問題となり、スベンスカ社とCFVがこの問題解決試みた成功しなかった。この機体スウェーデン空軍制式化された。ビュッカーとCFV引き渡し後も着陸装置胴体改良行っている。これはより角張った胴体であり、ジュピターFが発動機選ばれた。スウェーデン空軍は3機のヤクトファルク受領した。 スヴェンスカ社はヤクトファルク輸出熱心に試みたアルゼンチン日本の代表が来訪しテスト行ったが、発注には至らなかった。唯一の輸出ノルウェーで、1931年アームストロング・シドレー製のパンサーA発動機搭載の1機が発注された。この機体フューリー戦闘機との競作付された。1933年スウェーデン空軍が7機の追加発注をした時には、スヴェンスカ社はASJA社に買収されており、新たな製造元によって、垂直安定板風防幾つかの小さな改良施した機体製造された。

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巡航戦車 Mk.IV」の記事における「開発と生産」の解説

1936年から1937年にかけ、イギリスは、アメリカクリスティー式戦車元にした巡航戦車 Mk.IIIA13)を開発採用したが、Mk.III最大装甲厚が14mmと、甚だ軽装甲であったMk.III量産開始され早々1939年初め巡航戦車最大装甲厚を30mmまで高め訓令出された。A13試作車使って試験行った結果主要部装甲増加速度性能にさほどの影響出ないことが確認され、この増加装甲A13 Mk.II巡航戦車Mk.IVとして採用された。装甲強化されたのは主に砲塔部で、特に側・後面中空方式増加装甲装着された。このため見かけ上、砲塔大型化されたが、基本形状同一である。カタログデータ上、最高速度等に変化はないが、重量増加の分、機動性若干低下したものと見られる巡航戦車 Mk.IV開発採用は、Mk.III量産開始直後であったため、Mk.III65両と比較少数生産終わり1939年中にはMk.IV生産開始され、665両が作られた。また、Mk.III一部Mk.IV仕様改修された。 砲塔同軸機銃当初Mk.IIIと同じビッカース.303だったが、後にベサ機銃換えられた。ベサ機銃搭載型は巡航戦車 Mk.IV Aと呼ばれる。2ポンド砲の替わりに3.7インチ榴弾砲搭載した近接支援型巡航戦車 Mk.IV CS少数製作された。また、Mk.IV、Mk.IVAともに、砲塔防盾部にも増加装甲カバー装着されたものもある。

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ワルサーP38」の記事における「開発と生産」の解説

1930年代水面下再軍備模索していたヴァイマル共和国軍では、高価格機構信頼性について問題抱えていた当時制式拳銃ルガーP08更新計画持ち上がった1929年警察向け拳銃PP発表したばかりであったワルサー社は、この動き受けて軍部向け新型拳銃開発乗り出し、まず1934年に、PP9mmパラベラム弾仕様大型化したMP (Millitärische-Pistole) を試作した。しかし、MP固定バレルシンプルブローバック方式使用される9mmに対して脆弱であったことから、ワルサー社改め1935年ショートリコイル採用したAP (Armee-Pistole) を開発し、軍に提案した。このAPは既に後のP38に近い外観有していたが、撃鉄内装式コッキングされているかどうか直感的に分かりづらい点を軍当局は好まなかった為、製造少数とどまった。それらの試作品中には75mmの短銃仕様存在したAP対す評価踏まえワルサー社1937年撃鉄外装式変更したHP (Heeres-Pistole) を完成させた。陸軍兵器局提出品の試験続けられる間、ワルサーHP民間市場向けに販売開始され第二次世界大戦勃発まではアメリカにも輸出された。スウェーデン軍1939年1940年に計1,500挺のHP購入し、m/39として制式化した。民間向けとして、通常の9mmパラベラム弾仕様以外に、少数7.65x21mmパラベラム弾や.38スーパー弾、.45ACP弾仕様製造された。 1938年HPドイツ国防軍によって制式採用され、P38の名称が与えられた。翌1939年春から生産開始されドイツ国防軍実用試験供された。HPP38エキストラクター当初内蔵式であったが、軍の改善要求を受け、排左側スムーズに行われるよう露出した構造変更された。更に軍用であるP38については、清掃容易化為にグリップすべり止めチェッカリングから畝状に並ぶ溝に改められた。 1940年4月ドイツ国防軍での試験完了し、軍は410,600挺を発注した。銃の左側入れられワルサー社ロゴは、1940年秋に機密保持のためコード番号480」の刻印置換えられた。この刻印企業名アルファベット秘匿コード置き換える方針導入に伴い程なくしてワルサー社を示すac製造年数字下二組み合わせ変更された。ワルサー社では1945年までに約584,500挺が生産され民生用であるHP刻印を持つ製品1944年半ばまで製造された。 ドイツ国防軍月産10,000挺以上の製造望んでいたが、ワルサー社生産能力ではその目標かろうじて満たす事しかできなかったため、軍は1940年6月モーゼル社に対しルガーP08生産終了してP38生産開始するよう要求した。しかし、同社によるP38生産開始1942年11月まで遅れ、それまでP08量産継続された。モーゼル社製P38には秘匿コードbyf、1945年からはSVWが打刻され、約323,000挺が生産された。 1941年9月からはシュプレーヴェルク(英語版) 社もP38製造加わり翌年夏より本格的な量産開始された。同社秘匿コードはcyqで、1945年4月工場ソ連軍占拠されるまでに約283,300挺が生産された。 この他1942年ベーメン・メーレン保護領のベーミッシェ・ヴァフェンファブリーク (Böhmische Waffenfabrik) 社にて100挺が組立てられたという軍需省記録残されている。 大戦末期プレス鋼板電気溶接による試作品作られたが、1丁のみを生産しただけであった1945年終戦時独ソ戦舞台となった東ヨーロッパ各国にはドイツ軍からの鹵獲接収としてのP38大量に存在していた。一方ドイツ本国進駐したアメリカ軍なども、国内備蓄されていたP38一定入手している。これにより、戦後東西各国軍・警察にてP38採用され一部では1990年代まで使用されモーゼル社は1945年4月20日P38製造終了したが、5月10日には現地進駐したフランス軍命令により製造再開されている。これは事前に連合国間で交わされドイツ国内での武器製造禁じ合意への明確な違反であったモーゼル社の製造コードもSVW45として維持され1946年にはSVW46となったフランス向けP38大部分第一次インドシナ戦争只中仏領インドシナへと送られた。皮肉なことに、これを受け取ったフランス外人部隊中には敗戦後志願したドイツ軍人も少なからず含まれていたという。フランス向けP38パーカー処理のために明る灰色見えるものが多く後年コレクターからは「グレイゴースト」と通称された。 シュプレーヴェルク社が所在しチェコスロヴァキアも、残っていた部品用いて1946年に約3,000挺を組立て、CZ46と命名した西ドイツ再軍備に伴い創設されドイツ連邦軍もまた制式拳銃としてP38欲し1957年5月ウルム移転していたワルサー社P38生産再開された。その後いくつかの仕様変更施されP38は、1963年ワルサーP1改称された。 そのほかイタリア極左テロ組織赤い旅団メンバーも、P38凶器として愛用したと伝えられている。 1974年10月から1981年まで、銃身長を70mmまで短縮しパイプ部分ほとんどない)、セーフティーレバーを単純にデコッキング機能だけとしたP38Kが2,600生産された。

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開発と生産

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チャバ (装甲車)」の記事における「開発と生産」の解説

ハンガリーからの移民であるニコラス・ストラウスラーハンガリー名:シュトラウスレル・ミクローシュ)は、戦間期イギリスで数種の装甲車設計したその後ストラウスラーは、母国ハンガリー軍用の装甲車彼の設計に基づき製作することを、チェペル/ブダペストのヴァイス・マンフレート社との間で合意した。うち、量産移されチャバは、ストラウスラー設計アルヴィスAC2装甲車発展型である。 1939年順調に試験終了した後、ハンガリー陸軍は「39Mチャバ偵察装甲車39M Csaba felderítő páncélgépkocsi)」の制式名称61両を発注、さらに1940年40両を追加発注した32両とする資料もある)。2次発注のうち20両は通常型で、残り無線指揮車として製作された。 通常型の39Mチャバ車体中央の砲塔ゾロトゥルン20mm対戦車ライフル8mm機関銃搭載していた。車内にもう1丁の8mm軽機関銃搭載しており、後部ハッチ通して対空射撃可能だった。この機銃は、乗員降車し偵察任務を行う際の携行用でもあった。また、チャバ通常の前部操縦席のほか、後進用の後部操縦席備えていた。 無線指揮車の40Mチャバは、8mm機銃1丁のみ装備小型砲塔付きで、通常型R-4無線機加え、R-4T無線機搭載大型のフレームアンテナを備えていた。

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開発と生産

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Wz.34装甲車」の記事における「開発と生産」の解説

wz.34装甲車は、もともと半装軌車装甲車として開発されたものが装輪式に改修されるという、特異な経歴持っている1924年ポーランドフランスから半装軌式のシトロエン・ケグレスB2 10CV型シャーシ135両分入手した。シトロエン・ケグレス方式ハーフトラック戦間期サハラ砂漠横断などの冒険で名を上げただけでなく、軍用牽引車として活用されプジョーシュナイダーによって、これをベースとした装甲ハーフトラック開発されていた。 ポーランドでは、フランス本国モデル参考に、それによく似たシトロエン・ケグレスB2 10CVシャーシ装甲ボディ自国開発し、wz.28装甲車として採用1927年から1930年にかけ、ポーランド自動車メーカーCWS社で90両が製作された。 しかし実際に配備進めてみると、不整走行能力思ったほど高くないにもかかわらず最高速度低くハーフトラックならではのメリット感じられないはなはだ不本意な性能車両であることが判明した。 そこで、これらをオーソドックス装輪形式改修することが決定され1934年最初の1両によるテストの後、7月にはwz.34装甲車として制式化された。装輪化への改修キット配られ1938年までにおそらく87両のwz.28がwz.34改修された。 wz.34装甲車は、走行装置除いてはほぼwz.28装甲車のままで、小型砲塔には、同じくポーランド軍装備していたルノー FT-17戦車同様、オチキス7.92mm機関銃wz.25か、ピュトー(プトー)37mm自動砲SA-18のいずれか搭載されていた。およそ3分の2が機銃装備型だったという。 車体装甲形状には、元になったwz.28装甲車初期生産型である、側面後輪上にかぶさり後面が垂直のもの、後期生産型で幅が狭く後面傾斜したものとの2種類があった。なお、床面装甲されておらず木製だった。 走行装置(エンジンとリア・アクスル)には改修時期により別があり、これによって3種サブタイプ分かれている。改修経緯考えると、装甲形状サブタイプとは関連がないものと思われる

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開発と生産

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トゥラーン (戦車)」の記事における「開発と生産」の解説

ハンガリー1938年、トルディ軽戦車採用生産決定したが、その後勃発した第二次世界大戦初頭戦争の推移から、より本格的な機甲兵力の整備が必要と判断された。そのためには、より強力な中戦車不可欠であったハンガリードイツからIV号戦車ライセンス生産得ようしたものの、これは許可されず、替わって1940年、チェコ・シュコダ社製のT-21中戦車選ばれた。 T-21は、同じくシュコダ社製のLT-35軽戦車試作名称S-II-a。ドイツ軍名称「35(t)戦車」として知られる)の拡大発展型として試作されたもので、リベット接合車体・砲塔持ちLT-35譲りボギーリーフスプリングサスペンション空気圧式変速機備えていた。当初S-II-cの試作名称製作されていたが、1939年ドイツによるチェコ併合経てT-21改称された後、試作車完成したハンガリーはこの原型テストの後(ハンガリー入手したのは小改良型のT-22とする資料もある)、「40Mトゥラーン中戦車40M Turán közepes harckocsi)」(トゥラーン I)として制式採用1940年9月最初230両の生産発注が行われた。 ライセンス生産当たって原型T-21シュコダA9・47mm砲は国産51口径41M 40mm砲に改められ砲塔形状改変エンジン国産のヴァイス・マンフレード製のものになるなど、200箇所以上が変更されている。生産ガンズ社、マーヴァグ社、ヴァイス・マンフレード社、MWG社に振り分けられたが、これは主生産工場であり、パーツ供給工場ハンガリー全土散らばっていた。トルディ軽戦車多少経験積んでいたものの、開発と生産には時間要し国産トゥラーン試作車完成1941年6月生産車部隊配備1942年入ってからとずれ込んだ。 しかし、40Mトゥラーントゥラーン I)の生産本格化する前に折から始まったバルバロッサ作戦戦訓により、40mm砲ではすでに強力なソ連戦車には太刀打ちできないことが明確化してしまった。このためトゥラーンに短砲身ながら75mm砲を搭載する試み並行して行われた。マーヴァグ社が開発した41M戦車砲搭載した火力強化型は、1942年2月試作車完成、「41Mトゥラーン重戦車(41M Turán nehéz harckocsi)」(トゥラーン II)として制式採用された(ハンガリー軍では、75mm砲搭載車重戦車分類された)。この間1941年7月には309両の第二次発注が行われていたが、75mm砲搭載型の41Mトゥラーントゥラーン II)の最初生産車完成したのは1943年入ってからで、その後も砲の生産の遅れのため、トゥラーン I も引き続き生産された。 実際にはこのトゥラーン IIの75mm砲でも力不足明らかなため、その後ドイツ7.5 cm KwK 40をもとに国産化した長砲身43M 75mm砲を搭載するタイプ開発された。この「43Mトゥラーン重戦車(43M Turán nehéz harckocsi)」(トゥラーン III)の試作車1944年完成したが、戦局の悪化ハンガリー単独講和模索動き察したドイツ軍進駐による混乱など、さまざまな理由から生産には至らず終わった

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開発と生産

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ルノー R40」の記事における「開発と生産」の解説

1935年以降歩兵支援軽戦車主力として量産が行われていたR35は、足回り掛かる重量配分不均衡不整走行能力が低いという欠点試作段階より抱えており、その欠点克服するため、ロレーヌAMX、そしてルノー自体からも、いくつかの改良提案なされていた。 ロレーヌAMXルノー改良案元に1938年試験が行われ、その結果AMX製の走行装置優れている判断され1939年2月に「Charger Modèle 1935 R modifié 1939軽戦車-1935年式-R-1939年改)」としてAMXの案が採用された。 新型足回りは、ルノー D2中戦車のものに非常に似通った形式で、片側12個の小転輪2つずつ連結、さらにその2組を3本の垂直サスペンション支えた多く資料では、これをD2同様に垂直コイルスプリングによる懸架としているが、この点疑問もある。なお、転輪2つ連結したボギーごとに、計6本のショックアブソーバー付けられている。 足回り全体ルノー D2同様に装甲スカート覆われ履帯シャールB1のものを小型化たような形状のものが使われた。改修により、不整走行能力全般的に上昇したが、速度変わらず新型足回りによる重量増加航続距離若干減少した足回り除き車体、砲塔R35とまった変わらない。ただし、武装評価試験用の改装車と思われる車両では短砲身ピュトーSA18積まれているが、生産車では基本的に新型長砲身37mmピュトーSA38(フランス語版)が搭載され、超壕能力を増すための尾橇標準装備であった。ただし、ドイツ侵攻始まってから生産され最末期車両では、尾橇付けられていないものもある。 1940年2月R35生産1,500輌目から、この新型足回り付き車両生産予定されたが、実際に生産ライン改変の遅れから、切り替えはさらに40程度通常型R35生産され後のことになったドイツ侵攻による混乱で、最終的に何輌のR40が生産されたかははっきりしないが、120輌から140輌程度と言われる登録番号 51670 を付けた車両写真もあり、R40の生産開始が仮に 51541 からだったとすれば写真車両130輌目ということになる。

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MC.202 (航空機)」の記事における「開発と生産」の解説

MC.202の前身であるM.C.200サエッタ開戦時イタリア空軍主力戦闘機として各方面展開したが、500km/h程度速度性能軽武装更には保守的なパイロット達が開放操縦席要求したことなどが制約となり、潜在的に持っていた優れた設計生かしきれない戦闘機となった部隊配属開始され1939年時点で既にその性能限界見えていた。 この戦闘機が持つ本来の能力引き出すには大馬力エンジンの搭載不可欠であったが、イタリア国内にはそれに適したエンジン無かった。そこで白羽の矢立ったのは、同盟国ドイツダイムラー・ベンツ製DB.601エンジン水冷倒立V型12気筒、1,100馬力)である。 前身サエッタ設計担当したマリオ・カストルディ技師は、早速このエンジンに合うよう機体設計し直した極端なまでの視界要求応えたサエッタ胴体の背の高さを低くし、胴体は60cmほど延長された。また、この機の特徴として左の翼が右に比べ20cm長いことが挙げられるが、これは同機以外でも戦前からイタリア機でしばしば用いられ手法で、プロペラ回転方向生じるトルクモーメントを打ち消すためのものであった原型機シリアルM.M.445)はDB601Aエンジン(1,175馬力)、ピアッジョP.1001可変ピッチ定速プロペラ搭載し1940年8月初飛行した。エンジン換装効果は明らかで、速度一気に600km/hクラスになり、高度18000フィート(約5500m)まで6分以内で、十分な運動性を維持したまま上昇可能であった空力的にみて妥当な改設計はこの戦闘機が持つ本来の力を引き出した空軍もこの戦闘機優秀さ目を付け即座に量産命令出された。 原型機はヘッドレスト・フェアリング左右に後方視界確保用の窓を持っていたが、量産機では単にフェアリング左右に窪み付ける形に簡略化され、また引き込み式だった尾輪固定式となった生産1941年5月からマッキ社で始まり7月からはブレダ社、翌1942年5月からはSAIアンブロシーニ加わった。ただ、搭載予定DBエンジンドイツ国内向けの生産手一杯だったこともあり、その生産当初、なかなか軌道に乗らなかった。しかし1942年からはアルファロメオ社がDBエンジンをRA1000RC41(1175馬力)としてライセンス生産開始し、ようやく生産軌道に乗ったイタリア軍数年間で計1453機を発注ブレダ900マッキ403SAI アンブロジーニ150)し、最終的には1150機近く生産された(ブレダ650マッキ400SAI アンブロジーニ100)。

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マウス (戦車)」の記事における「開発と生産」の解説

制式採用された“マウス設計案には「VIII号戦車 (Panzerkampfwagen VIII)」の制式名称及び「Sd.Kfz 205」の制式番号与えられ設計ポルシェ社、部品生産組み立てクルップ社、砲を含む最終組み立てアルケット社により行われること決定した。またVII戦車 (Panzerkampfwagen VII) として“レーヴェ”の名称を持つ重戦車開発される予定であった。“レーヴェ(Löwe)”とはドイツ語ライオンの意である。 1943年2月にはクルップ社に対して120両が発注され同年5月1日には木製モックアップ完成してヒトラー以下の軍関係者披露された。これを見たヒトラー搭載予定のものを更に上回る主砲搭載することを要求した。12.8cm砲の搭載指示したのはヒトラー自身であったが、『この戦車には12.8cmでもおもちゃ大砲のようだ』との感想述べ更なる大口径砲搭載命じたヒトラーは更に砲塔下面跳弾防止など、防御上のいくつかの欠点指摘した弾薬携行数は主砲50発から80発へ増やされ副砲200発から100発へ減らされた。同席した機甲総監ハインツ・グデーリアンからは近接戦闘における対歩兵装備不備指摘された。これらの指摘受けて若干改修指示され5月5日には改修案を取り入れた上、生産数追加され、計135輌が発注された。 後、グデーリアンは戦後著書電撃戦-グデーリアン回想録』に、ヒトラーと共にマウスモックアップ閲覧した際のエピソード記述している。彼は超重戦車開発計画について触れ重量過大接近戦闘能力の低い超重戦車に対して非常に低い評価与えたまた、この計画進めたヒトラー及びポルシェ博士以下の関係者に対して厳しい批判述べられている。 しかし、1943年7月の“ツィタデレ作戦”の失敗以降戦局ドイツにとって不利となり、軍需資源の不足が次第深刻になっていくことが確実視された。生産大量資源使用する超重戦車に対してアルベルト・シュペーア始めとする軍需省関係者評価低く資源浪費であるとして計画の中止進言された。 150両分生産準備進められたものの、実際に戦車として形になったものは2両であり、その組立次々変更加えられたことから遅延積み重なった1943年8月には試作車生産始められたが、同年10月にはポルシェ社に、11月にはクルップ社に対して量産計画中止通達された。この時点ではエッセンクルップ社工場試作車2両の車体と1基の砲塔完成間近で、他に4両分車体と6基の砲塔生産であった。更に4両分車体と2基の砲塔のための鋼材準備されていたが、量産中止通達を受け、試作車以外の車体砲塔スクラップとして他の用途転用された。後にクルップ社にはマウス生産再開せよとの通達出されたため、これらのうちスクラップ化を免れていた1両分車体砲塔生産ライン戻されクルップ社エッセン工場調査したイギリス軍によって発見されている。 こうした戦況の悪化量産中止指示され状況下においても組立続けられた。1943年9月中旬ごろからベルリンシュパンダウ所在するアルケット社で作業開始され生産され部材鋼板集積されたものの、アルケット社では他の車両生産優先したためにしばらく組立放置された。同年1号車車体部のみが12月末に完成し12月23日走行試験が行われた。 翌年1944年1月10日バーデン=ヴュルテンベルク州ベーブリンゲン(Böblingen)にある演習地送られ同年1月14日から鋳鋼製、資料によってはコンクリート製ともされるダミー砲塔搭載し走行試験開始された。試作2号車1号車完成後に組立作業入ったが、やはり他の車両生産優先されたために作業遅々として進まず3月には車体部のみがエンジン搭載しない未完成状態でベーブリンゲン送られた。1944年5月にはようやく完成した砲塔1基がアルケット社から発送されたが、既に超重戦車開発計画には高い優先度与えられていなかったために最終組立作業順延され、同年6月9日試作2号車砲塔搭載され、ようやく完全状態のマウス完成したその後1944年6月から9月にかけて試作1、2号車ベルリン南方のクンマースドルフ (Kummersdorf) にある陸軍車両試験場移送され兵装実射試験始めとした本格的な試験開始されたが、最大速度登坂能力等の機動性能は計画予定値を下回っており、燃費の悪さ想定上であった。機械的不調続発し試作2号車試験中にエンジン損傷し以後行動不能に陥っている。 1944年11月1日には総統官邸から正式に超重戦車全ての開発計画中止」が命令されたため、マウス開発計画終了となった

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開発と生産

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巡航戦車 Mk.III」の記事における「開発と生産」の解説

1936年イギリス陸軍は、主力となる中戦車軽装甲高速巡航戦車、重装甲低速歩兵戦車2種分けて開発を行うとの決定下した当時すでに開発進められていた中戦車A9巡航戦車 Mk.Iとして採用されたが、これに使われたスローモーション・タイプのサスペンションは、安定性は高いものの高速走行には向かないものであった一方1936年9月ソビエト連邦軍赤軍)の秋期演習見学したウェーベル将軍マーテル大佐は、アメリカクリスティー式戦車をもとに開発され快速戦車BTに強い感銘を受け、その結果イギリスでもクリスティー戦車導入図られることとなったイギリスは、モーリス社が受け皿となってクリスティー戦車M1932を購入するとともにクリスティー本人技術指導招き、その改良型の開発進められた。 ソ連BT戦車が、特にその最初期はほぼクリスティー設計そのままだったのに対しモーリス社が開発したA13車体拡大され巡航戦車 Mk.I とほぼ同型の3人用砲塔搭載されとともに煩雑な装輪走行機能廃止された。生産モーリス傘下のナフィールド社(Nuffield Mechanisation and Aero Ltd)が担当オリジナルクリスティー戦車にも搭載されていたリバティー・エンジンも、同社ライセンス生産が行われた。 試作車1937年中にテストが行われ、1938年もしくは1939年1月には量産1号車完成1939年夏までに発注65両すべてが完成した。 もともと、装甲防御力犠牲にして高速性能追求した巡航戦車 Mk.III だが、それでも最大装甲厚14mmはあまりに薄く1939年初めに巡航戦車最大装甲厚を30mmに引き上げ訓令出された。このため装甲強化した改良型A13 Mk.II巡航戦車 Mk.IV)が作られ採用された。一部巡航戦車 Mk.IIIは、後にMk.IV仕様改修された。

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開発と生産

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I号戦車」の記事における「開発と生産」の解説

ヴェルサイユ条約によって戦車開発禁じられていたドイツだが、戦間期秘密裏に「WD シュレッパー」「重トラクター」「軽トラクター」などの名称で、自走砲戦車試作が行われ、ソビエト連邦カザン実験場テストが行われた。しかし、これらはどれも試作の域を出るものではなかった。 一方、軽トラクター開発とは別に1927年10月クルップ社は、後に「L.S.K.」(leichte Selbstfahrkanone、ライヒト・ゼルプストファール・カノーネ、「軽自走砲」の意)と呼ばれる自走砲シャーシ車台)の開発開始したリアエンジン・リアドライブ方式操縦席前部右側にあったシャーシ中央37 mmもしくは75 mm砲が置かれる予定であった武装装甲を含む重量は7.9 tになる予定であった1年半に及ぶL.S.K.のコンセプト議論の後、クルップ社は2輌の試作車開発製造契約結んだ。この計画は、軽トラクターの約6ヶ月前に開始されたが、両車はほぼ同時に試験達した。 L.S.K.の設計は、軽トラクター同じくサスペンション問題悩まされた。L.S.K.は失敗作終わったが、リアエンジン方式自走シャーシ概念は、次の小型トラクター」(Kleinetraktor、クライネトラクトーア)=La.S.=I号戦車基礎となった1928年イギリスでカーデン・ロイド Mk.VI 豆戦車機銃運搬車牽引車)が開発され各国豆戦車ブーム起こした原型Mk.VI自体1.5 t程度だが、実戦耐えうるよう、改良を施すと、各国豆戦車のように3 t程度になったドイツもこのブーム無視することはできなかった。 さらに、翌1929年には、「カーデン・ロイド Mk.VIII 軽戦車」を基に、「ヴィッカース Mk.I 軽戦車」(実質豆戦車戦闘重量4.8 t、59馬力のメドウスエンジンを搭載し路上最高速度48 km/h武装は.303インチ(7.7 mm重機関銃 1挺)が開発された。実際に完成したI号戦車はこちらに近いと言える軽量な車体に(重量対し相対的に高出力エンジン搭載した出力重量比小さい)カーデン・ロイド系豆戦車/軽戦車は、クリスティー快速戦車並んで1930年代戦車高速化大きな役割果たしたと言えるI号戦車原型である小型トラクターは、そもそも3トン級の豆戦車相当として開発始まったであって、ここは重要な点である。I号戦車軽戦車として捉えると、I号戦車本質見誤ってしまう。小型トラクター豆戦車相当であるがゆえに、軽戦車である軽トラクター(9 t程度)と並行開発がされたのであって、両車はそもそもカテゴリー異なる(棲み分けなされている)のである。つまり、小型トラクターI号戦車は、軽トラクター代替ではない。 また、I号戦車軽戦車捉えると、軽戦車であるII号戦車カテゴリー重複してしまうが、I号戦車本質豆戦車捉えII号戦車開発中止となったトラクター代替(そのポジション・ニッチを埋めるもの)だと考えれば、この両車もカテゴリー異なる(棲み分けなされている)わけである。 1930年小型トラクター仕様議論費やされた。当初仕様では、重量3 t60馬力エンジン搭載20 mm機関砲武装する計画であった1931年6月24日完成した小型トラクターモックアップは、後のI号戦車とは著しく異なっていた。フロントエンジン・リアドライブ方式で(トランスミッション前方配置)、全長は3460 mm、幅は1820 mm重量3.5 t(仕様書)、車体装甲厚(仕様書)は、前/側面13 mm後面10 mm、上/下面が6 mm60馬力クルップ社水平対向4気筒空冷ガソリンエンジン45 km/h仕様書)、路上航続距離200 km仕様書)。左右30度ずつの射角20 mm機関砲ケースメイト前面右側装備された。乗員は、車体後部戦闘室に、左側前方操縦手右側後方車長砲手の、2名であった足回りは軽トラクター似ていた。前後長いことを除けば、後のポーランドTKS 20 mm機関砲搭載型に似ていたと想像される。 ※蛇足だが、この小型トラクタースペックは、後のヴィーゼル1 兵器運搬車20 ㎜機関砲搭載型)と近似である。 しかし、L.S.K.と軽トラクター試験により、フロントエンジン・リアドライブ方式欠陥実証され1931年9月18日陸軍兵器局第6課のハインリヒ・エルンスト・クニープカンプにより、フロントエンジン・リアドライブ方式での小型トラクター開発中止された。同日、リアエンジン・フロントドライブ方式での新し小型トラクター仕様承認された。 この頃に、軽トラクター発注取り消されたのも、同様の理由だと考えられるまた、駆動方式問題だけでなく、あたかも戦艦ドレッドノート登場のごとく、革新的なヴィッカース豆戦車/軽戦車登場により、軽トラクター設計(特に足回り路上最高速度もわずか30 km/hと、1930年代軽戦車としては、もはや遅過ぎる)が瞬く間時代遅れになってしまったことも大きな原因であろう1931年交通兵監のオズヴァルト・ルッツ(ドイツ語版英語版)や、同兵監部主席参謀ハインツ・グデーリアンらによって将来陸軍機械化構想がまとめられた。この構想では15トン級の主力戦車や、20トン級の支援戦車2種戦力位置づけられていたが、その開発にはなお長時間必要になる予想されたため、それまでの「繋ぎ」として、訓練用生産技術習得兼ね軽戦車開発が行われることとなった。そこで、クルップ社開発中であった小型トラクター白羽の矢立った。 クニープカンプの提案により、開発参考用として、イギリスヴィッカース・アームストロング社に、同社軽戦車(ホルストマン・サスペンション導入前の、ヴィッカース Mk.I 軽戦車)の足回りを持つ、3輌の軽トラクターが、1輌目は1931年11月10日、2輌目は1932年9月12日、3輌目は同年10月11日発注されシリアルナンバー VAE 393406407 の各車が輸入された。1932年1月VAE 393はクンマースドルフ試験場到着した1932年5月5日クルップ社陸軍兵器局第6課に、新し小型トラクター基本仕様書提出し試作車1輌の製造契約結ばれた1932年7月29日クルップ社完成させた、新し小型トラクター試作車台(試作1号車)は、イギリス車両設計(特にリーフスプリング・サスペンション)の影響色濃く受け継いだものとなった。それは、イギリス技術混在した、小さなL.S.K.のような外見であった1932年8月15日から、クンマースドルフ試験場にて、小型トラクター試作1号車走行試験開始された。 同年9月28日小型トラクター試作1号車輸入トラクターとの比較走行試験実施され小型トラクター路上最高速度40 km/h発揮し、「カーデン・ロイド豆戦車よりも機動性優れている」という評価受けた試験結果を基に、陸軍兵器局第6課は、1932年9月1933年2月の間に、クルップ社様々な改良要求した1933年3月20日陸軍兵器局第6課は、軟鋼製の増加試作車として、クルップ社試作第2号車の、続いて同年5月10日試作第36号車の、製造発注した1933年7月1日陸軍兵器局第6課から、主にクルップ社の他、技術習得のために、グルゾン製作所クルップ社の子会社)、ヘンシェル社、MAN社、ラインメタル社、ダイムラー・ベンツ社の5社を含む、計6社に対し小型トラクター150輌(1ゼーリエ)(Serie=英語でのシリーズseries)にあたる)の生産発注されクルップ社135両、他の5社が各3両ずつ、担当することになった小型トラクター砲塔戦闘室の設計は、クルップ社ダイムラー・ベンツ社の競作となり、ダイムラー・ベンツ社の設計案採用され、2ゼーリエから搭載されることになった1933年12月から、車体上部構造物が無い車台のみの訓練用車輌(1ゼーリエ)の生産始まり続いて1934年7月から、戦闘室・砲塔を持つ戦車型(2ゼーリエ)の生産開始された。なお、「1ゼーリエ」は「I号戦車A型」には含まれないまた、「2ゼーリエ」=「I号戦車A型」の生産は、上記5社によって行われ開発メーカーであるクルップ社加わっていなかった。 ヴェルサイユ条約によってドイツ戦車生産禁じられていたため、連合国戦車であることを察知されないように、秘匿のため、「農業用トラクター」(Landwirtschaftlicher Schlepper、ラントヴィルトシャフトリッヒャー シュレッパー、 略号:La.S.)の偽装名称が、生産期間中は使用され続けた当初は、「機関銃装甲車」(Maschinengewehr Panzerwagen、マシーネンゲヴェーア パンツァーヴァグン)と呼ばれたが、1936年4月再軍備宣言後に、Sd.Kfz.101の特殊車輌番号とともに、「I号戦車A型」(Panzerkampfwagen I Ausf. A、パンツァーカンプ(フ)ヴァグン アイン(ツ) アウス(フ) ウンク アー)の制式名称与えられた。 ※ドイツ語の「Punkt」(プンクト)は「.」(点、ドット)を意味するが、繋げて読むと、前後の「p、プ」と「t、ト」をほとんど発音しないので、「ウンク」と聞こえる。 1936年6月までに、818輌のI号戦車A型生産された。 I号戦車A型は、開発メーカーであるクルップ社トラック用改良型である空冷水平対向エンジン57馬力)を搭載車体構造当時主流であったリベット接合ではなく溶接組み上げられていた。MG13k機関銃連装装備する回転砲塔(砲は搭載されてないので、正確に銃塔である)は戦闘室の右寄り搭載され戦闘左側乗員乗降用のハッチ設けていた。足回り参考としたヴィッカース社製トラクターリーフスプリング用いたボギー踏襲していたが、4つ転輪を持つヴィッカース・トラクター(最後尾転輪誘導輪兼ねる)に対し負荷掛かる最前部にコイル・スプリング独立懸架した転輪追加最後尾誘導輪兼ね転輪大径化し、さらに2組ボギー外側補強用のガーダービームを追加した履帯高マンガン鋼製、シングル・ドライピン式スケルトン・タイプで、形状ヴィッカース社製ほぼそのままコピーだった。 I号戦車は、容積問題から砲塔内に収容できなかったので、車体内戦闘室右前部に、電撃戦の要である無線機(Fu.2受信機もしくはFu.5送受信機通常はFu.2受信機)を、標準装備として備えていた。受信機操縦手無線手を兼任して操作した。各車は、戦闘指揮専門とする「I号指揮戦車」の指示に従って部隊全体統一行動行った生産されI号戦車A型は早速部隊配備され、再軍備宣言をしたナチス・ドイツの軍事力をアピールする役を果たしたが、運用上では、エンジン出力不足や過熱問題走行安定不良などの問題点浮上した。これらを解決するため、小型指揮戦車用に開発された、マイバッハエンジン搭載した延長車体戦車型にも採用されることとなったクルップ社ダイムラー・ベンツ社によって開発された、延長車体I号戦車は、当初従来型の「クルップ1A 農業用トラクター1A La.S. Krupp)」に対し、「マイバッハ1B 農業用トラクター1B La.S. May)」の秘匿名称が与えられていたが、後に「I号戦車B型」(Panzerkampfwagen I Ausf. B、パンツァーカンプ(フ)ヴァグン アイン(ツ) アウス(フ) ウンク ベー)の制式名称となったI号戦車B型は、A型では接地していた誘導輪独立させて持ち上げ転輪1つ追加同型転輪2つずつをボギー支え形式となったこれに伴い上部転輪1つ追加された。マイバッハ水冷エンジンNL38TR(100馬力)への変更に伴い機関室前後延長され形状変化したが、車体前部戦闘室、砲塔はごく細部仕様変更除き基本的にそのままとされた。I号戦車B型は、A型最終シリーズ並行して、「5aゼーリエ」「6aゼーリエ」として生産入り1935年8月から1937年6月にかけて675輌が生産された。「I号戦車B型」の生産は、上記6社からクルップ社ラインメタル社を除いた、グルゾン製作所ヘンシェル社、MAN社、ダイムラー・ベンツ社の4社によって行われた

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開発と生産

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T-20 (装甲牽引車)」の記事における「開発と生産」の解説

開発行ったのはモスクワ郊外のG.K.オルジョニキーゼ名称・第37工場で、同工場はビッカース水陸両用戦車を範としたT-37T-38開発・生産手掛けており、T-20は足回り部品多くを、これら水陸両用軽戦車から流用して作られた。 第37工場のほか、エンジン供給したゴーリキー自動車工場GAZ)、スターリングラード・トラクター工場STZ)で、1937年から1941年まで8000近く量産された。

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開発と生産

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「L3」の記事における「開発と生産」の解説

第一次世界大戦後ルノー FT-17 軽戦車を基にしたフィアット3000 軽戦車が、イタリア戦車大半占めていたが、イタリア半島北部山岳地帯だけでなく、北アフリカ広大な砂漠巡回する必要があったイタリア陸軍にとって、鈍足フィアット3000理想的ではなかった。1920年代後半までに、イタリア陸軍活動する全ての地形運用可能な高速装甲車必要性確認された。 1929年ウーゴ・カヴァッレーロUgo Cavallero将軍主導により、イタリアイギリスから数輌のカーデンロイド Mk.V*とMk.VI輸入試験の後、C.V.29の名称で、21輌のMk.VI完成品輸入Mk.VIライセンス得て、4輌をイタリア国内ノックダウン生産した(C.V.29は計25輌)。C.V.29について、「4輌を輸入し21輌をライセンス生産した(この説ではC.V.2921輌)」と、間違って逆に書かれていることがある。さらに、C.V.29を基に、独自の発展型がフィアットアンサルドによって開発されフィアットアンサルドC.V.33もしくはCV33、C.V.3/33)として制式採用された。開発者アンサルド社の主任戦車設計者である、ジュゼッペ・ロッシーニ。 C.V.33は、カーデンロイド Mk.VIおよびC.V.29同様の砲塔2人乗り豆戦車だが、車体は完全に新設計の、それらよりも大幅に延長されたものとなった。カーデン・ロイド Mk.VI初期無蓋戦闘室は、着席した乗員の肩の高さまで装甲板があるのみで、後期タイプC.V.29ではこれに四角錐台型の装甲フード付けた。これに対しC.V.33では戦闘室が増積され、上面には2つ平板なハッチを持つ。また乗員配置C.V.29までとは逆に、右が操縦手、左が車長機銃手となった前に起動輪、後ろ誘導輪がある、リアエンジン・フロントドライブ方式である。エンジン室のデザインその後L6/40軽戦車M11/39以降中戦車でも踏襲された。 1935年には、小改良型であるC.V.35登場するC.V.33では戦闘室の組み立て一部溶接用いられていたが、イタリアのみならず1930年代当時はほとんどの国が同様であった)では溶接技術未熟だったので、C.V.35では全面的に堅実なリベット接合変わっている武装C.V.33初期生産型セリエ I。セリエは英語でのシリーズseries)にあたる)ではフィアット レベリM1914 6.5mm重機関銃1挺(試作車では水冷式以後量産車では空冷式)、後に8mm重機関銃フィアット レベリM1935重機関銃またはブレダM38車載機関銃ブレダM37重機関銃車載型)2挺となり(セリエ II)、これがC.V.35まで標準となった。その他、ゾロターン S-18 20mm対戦車ライフル資料によっては、全自動の「S-18/1100」、もしくは、半自動の「S-18/1000」、と異なる)を搭載した対戦車型、火炎放射型などのバリエーション作られた。 1938年には、トーションバー・サスペンションを使った足回り持ちマドセン7mm機関銃2挺もしくはブレダM31 13.2mm重機関銃原型オチキス海軍艦艇向け装備)1挺もしくはブレダM35 20mm機関砲1門を搭載する改良型、C.V.38が登場するが、これはごく少数作られたのみに終わった各タイプ合わせた生産数は2,000輌を越え、これはカーデン・ロイド豆戦車海外での発展型の中では、フランスルノー UE牽引車ソ連T-27に次ぐ大量生産であった

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開発と生産

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Wz.29装甲車」の記事における「開発と生産」の解説

ポーランド軍1928年半装軌車式のwz.28装甲車制式化、その配備進めたが、性能的に満足のいくものではなかった。そのため、新たな装甲車開発されることになった新型装甲車は、軍の研究所技師ルドルフ・グンドラフ中尉中心となって開発された。シャーシには、ワルシャワウルスス製作所作られていた、イタリアSPA 25/Cトラックライセンス生産型ウルススA型トラックのものを強化して使い、これに砲塔付き装甲ボディ載せられた。軟鉄製の試作車両による試験の後、1929年11月、この車両wz.29装甲車として採用されCWS社において生産が行われた。 武装砲塔ピュトー37mm自動砲SA-18とオチキス7.92mm機関銃wz.25を2丁、車体後部にもオチキス7.92mm機関銃wz.25を1丁装備していた。ただし、砲塔2つ銃架のうち対空用に斜め上に付けられたものは効果的ではなく、後にここの機銃装備されなくなった生産メンテナンスしやすさというメリットはあったものの、元が後輪駆動トラックシャーシであるため不整走行能力速度低く大きさの割に車内狭く第一次大戦時代のままの武装採用時にすでに時代遅れだった。当時流行則り後進用の操縦席備えていたが、後進は1速だけだった。これらの理由から発注10両にとどまり1931年生産終了した

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開発と生産

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アンリオ HD.1」の記事における「開発と生産」の解説

アンリオ社は戦前一連の先駆的な単葉機作り上げたが、1916年、HD.1を送り出す前にイギリスソッピース社のライセンス生産会社となっており、有名なソッピース 1½ ストラッターの生産行っていた。 HD.1 は、明らかにソッピース機の特徴受け継いで作られ戦闘機で、頑丈だ軽く簡潔なラインと低い翼面荷重持っていた。特に胴体上で上翼を支え支柱は、ソッピース 1½ ストラッターの名称の由来となった長い支柱と短い支柱組み合わせた正面から見て)W字の形式踏襲されていた。一方、“本家”であるソッピース社が同時期に製作したソッピース キャメルとは逆に独自の特徴として、下翼は平で上翼にのみ顕著な上反角付けており、操縦士視界よくしていた。 110馬力の「ル・ローン」ロータリー・エンジン搭載し目覚しく早いとは言えないものの、運動性高く操縦士にとっては安全で飛ばしやすい飛行機であった。ただし、同時期のより強力なエンジン積んだ機体競り合え上昇性能高空性能持たせるためには、搭載するヴィッカース機銃は1 丁に限らなければならなかった(実際には、性能低下引き換えに2丁を積むこともあった)。機銃左舷オフセットされて装備されており、不時着の際に操縦士が銃尾に頭を打ち付けず済んだ。ただし、HD.1 を多用したイタリア航空隊では、中央装着する方を好み、後にはベルギー航空隊でも中央装備採用した少数機体特別装備として、対飛行船/対観測気球攻撃用主翼支柱へ計8発のル・プリエールロケット弾を装備可能である。 イタリアでは、ヴァレーゼのニューポール・マッキ社において、1917年から1919年の間に約900機がライセンス生産された。

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開発と生産

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巡航戦車 Mk.II」の記事における「開発と生産」の解説

中戦車A9(後の巡航戦車 Mk.I)の開発計画始まったわずか3ヵ月後の1934年5月、A10計画スタートした歩兵支援用に、より重装甲戦車開発求められヴィッカース社のサー・ジョン・カーデンは、手っ取り早くA9装甲強化によって応えた装甲A9最大14mmに対し当初24mm、最終的に30mmまで増厚されたが、その増厚は、追加装甲基本車体鋲接する方法が採られた。厚い一枚板の装甲板を使うよりも製造が容易で、上質な装甲鋼板節約にもなったが、防御力一枚板のものより劣った。 しかし、A9、A10の一方で兵器局エリス少将は、歩兵支援用の戦車予想される敵対戦車砲耐える装甲厚が必要とし、同じくヴィッカース社に小型・重装甲A11(後の歩兵戦車 Mk.I マチルダ I )の開発指示していた。A11当時最新鋭イギリスの2ポンド砲に耐えることを目標に、最大60mm超える装甲厚を備えていた。さらに1936年には、イギリス陸軍は、主力となる戦車軽装甲高速巡航戦車、重装甲低速歩兵戦車2種分けて開発を行うとの決定下したA9比べれば装甲強化されとはいえ最大30mmの装甲し持たないA10は、結局A9補佐する重巡戦車」として生産されることとなった。 A10は巡航戦車 Mk.IIとして制式化され、1938年中に最初発注が行われた。この間本命巡航戦車としてはアメリカクリスティー式戦車をもとにしたA13巡航戦車 Mk.III)も開発されており、A9、A10はそれらの数が揃うまでの“つなぎ”という位置付けであった。ただし、A10量産車引渡し始まったのは1939年末で、A13よりもむしろ遅かったA9では操縦席左右に.303 ヴィッカース機関銃備えた銃塔があったが、A10では除去された。試作車A10E1は当初中央突出した操縦手フード以外は、よく傾斜した前面装甲を持つ車体形状であった。しかし、やはり車体銃は必要と判断され操縦席わずかに左に移動、右に車体銃を備えた垂直の戦闘前面形状改められた。これに伴い乗員当初の4名から5名となった車体銃には、.303 ヴィッカース機関銃代わりチェコブルーノVz.37重機関銃(ZB.53)のライセンス生産型である、空冷ベサ機関銃選ばれた。しかし、砲塔同軸機銃は.303 ヴィッカース機関銃のままで、弾薬も共通ではなかったので、結局当初生産型車体銃を搭載しないままだった。後に砲塔機銃ベサ改められ、これには巡航戦車 Mk.IIA形式名が与えられた。また、同時期の他のイギリス戦車同様、3.7インチ榴弾砲搭載CS近接支援)型も作られた。 生産は、イギリス戦車生産工場育成策に則り開発会社ヴィッカース社で生産されたのは10両のみで、45両がメトロポリタン・キャメル社(Metropolitan-Cammell)、120両がバーミンガム・レールウェイ・キャリッジ・アンド・ワゴン社(Birmingham Railway Carriage and Wagon Company)で行われた。うち、30両がCSであった

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アルバトロス D.V」の記事における「開発と生産」の解説

1917年4月アルバトロス社はIdflieg(Inspektion der Fliegertruppen、航空部隊監察局)からD.IIIの改良型の製作を命じられた。試作機はその月の下旬初飛行した。 新型機D.Vは、D.IIIによく似ており、同じ170馬力メルツェデスD.IIIaエンジン使用していた。最も顕著な違いはD.IIIよりも32 kg軽くなった楕円形断面新し胴体であり、その両側には縦通材増設されていた。試作型のD.Vはヨハニスタール工場製のD.IIIと同じ標準的な方向舵持っていたが、生産型は東ドイツアルバトロス(Ostdeutsche Albatros Werke(OAW))製のD.IIIに装備され大型方向舵使用した。D.Vもまた、大きなスピナー腹鰭外観上の特徴であった。 D.Vの上翼は胴体12 cm近づけられ、また下翼はフェアリングなしで胴体取り付けられていた。翼自体は、補助翼操作用のケーブル取付修正されたほかは標準的なD.IIIとほとんど同一であった。この理由から、Idflieg胴体構造試験行ったが翼には行わなかった。 D.Vの初期型大きなヘッドレスト特徴としていたが、これはパイロット視界妨げるという理由から実戦部隊では外されることが多かったため、結局生産型からも除かれることになったパレスチナ方面配備される機体には、高温環境対応するため、翼面ラジエターが2基装備された。 Idflieg1917年4月200機のD.Vの生産契約締結したが、さらに5月400機、7月300機の追加発注行った初期のD.Vは、シュナイデミュール工場1917年最後までD.IIIの生産続けたため、ヨハニスタール工場のみで生産された。

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開発と生産

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ルイス・レンナー」の記事における「開発と生産」の解説

レンナー社はセイヨウシデ(英語版)材の使用精通しており、木材乾燥を行う。調整済み木材はさらに加工される。ゲルトリンゲン工場では原木加工される。モイゼルヴィッツ(英語版工場では、アップライトピアノおよびグランドピアノアクション組み立てられハンマーヘッド生産される

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開発と生産

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一四式水上偵察機」の記事における「開発と生産」の解説

日本海軍は、横廠式ロ号甲型水上偵察機後継機として1921年大正10年)に新たな水上偵察機開発着手した折り良くフェリックストウ F.5飛行艇ライセンス生産来日していたショート社のフレッチャー技師設計依頼し、またこれに横須賀海軍工廠技師補佐につけて1923年大正12年)に2機の試作機完成した。このフレッチャー技師設計した複座機体十年式水上偵察機呼ばれ日本製では初め尾部フロート廃したロングステップの双浮舟式の水上機となった。しかし重量過大所期性能達せず翌年改良型十年式水上偵察機A型)が製作されたが、これも不採用となった。 さらに1925年大正14年志村喜代少佐橋本賢輔技師により十年式水上偵察機B型試作され、海軍はその性能について見込みがあるものとし改良継続させ、同年末には満足のいくものとなったことから、翌1926年大正15年1月一四式水上偵察機 (E1Y)として制式採用した。一四式水上偵察機生産愛知航空機及び中島飛行機加えて行われることとなった木製骨組羽布張り機体の双フロート式水上機当初複座だったが、後に三座改められた。ロレーヌ400馬力発動機ロレーヌ 12D(イタリア語版))水冷V型12気筒装備1号(E1Y1)、ロレーヌ二型450馬力発動機ロレーヌ 12E水冷W型12気筒エンジン装備2号(E1Y2)の二種があったが、後継機難のため1931年昭和6年)にはロレーヌ三型450馬力発動機減速機付に、プロペラを4翅にし、各部再設計した3号(E1Y3)が生産されている。一四式三号に改良された際に、それまでの2座から3座となって乗員が1名増えた一四式水上偵察機横須賀海軍工廠他愛航空機中島飛行機320生産されたが、この内の約4分の3愛知であった航続距離長く安定性優れていた為実用性高く艦載基地用として日支事変初期まで広く使われた。第一線退いた後は練習機として使用された他民間にも払い下げられ民間機となった物の内には後席をキャビン式にして3~4名を乗せられるように改造された物もあった。

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開発と生産

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/15 16:15 UTC 版)

巡航戦車 Mk.I」の記事における「開発と生産」の解説

イギリス陸軍1920年代当時としては機動性の高いヴィッカース中戦車 Mk.IMk.II開発・装備していた。その後継として、A616トン戦車)とその改良型ヴィッカース中戦車 Mk.III開発されたが、これらは世界恐慌のあおりで採用見送られた。 A9当初A6中戦車Mk.III補佐する近接支援車両として1934年初めに企画されたが、Mk.III採用見送られた後、それらに代わる廉価版中戦車として、本命後継車両となった近接支援車両としては3.7インチ榴弾砲搭載予定されていたが、1934年11月主力戦車として最新の2ポンド(40mm)戦車砲搭載決定された。ただし、3.7インチ榴弾砲搭載支援型並行して少数作られることとなったA9は、これに先立つ中戦車Mk.III比べ軽量安価で、エンジン既存市販モデル使用されることとなっていた。ヴィッカースでは当初ロールス・ロイスファントムIIエンジン120馬力)を搭載するつもりであったが、開発中車重が約10トンから12トン以上へと増加したため、ロンドン2階建てバス使用されていたAECエンジン150馬力)へと変更された。 試作車1936年春に完成したが、この車両は、当時としては画期的ないくつかの特徴持っていた。車体地雷爆発に対して耐性の高い船底型底面持ち砲塔は、同じくヴィッカース社が手がけていた爆撃機動力銃座技術応用し世界初動力旋回装置備えていた。ただしこの旋回装置油圧式で、後のイギリス戦車はより安全性の高い電動式改められた。 サスペンションヴィッカーススローモーションタイプ呼ばれるもので、これ以前開発者のサー・ジョン・カーデンが手掛けたヴィッカース軽戦車系列キャリア系列用いられいたもの強化であった軽戦車系列では2輪1組であったボギーは3輪1組となり、24インチ大型転輪1つと、より小径の19.5インチ転輪2つが組になるという独特のスタイルで、このボギー片側2組ずつ装着された。この形式は、後の発展バレンタイン歩兵戦車でも用いられた。 一方でいくつかの技術的問題指摘された。ブレーキドラム欠陥サスペンションピッチング履帯脱落しやすさなどである。これらは生産開始までにある程度改善されたが、いくつか解決されずに残ったまた、主砲塔加え車体前部操縦席左右には、開発者サー・ジョン・カーデンのたっての主張により、ヴィッカース.303機銃装備銃塔1つずつ搭載されたが、もともと小柄な車体それぞれ選任銃手配置したため、乗員は6名と多く居住性悪化、また給弾ベルトのために銃塔旋回限定された。 こうしてA9開発進められていた1936年イギリス陸軍は、主力となる中戦車軽装甲高速巡航戦車、重装甲低速歩兵戦車2種分けて開発を行うとの決定下した。この新方針に基づきA9巡航戦車分類されることになり、巡航戦車 Mk.Iとして制式採用された。ただし、これはあくまでA9が単に軽装甲であったためで、先述の「スローモーションサスペンション安定性は高いものの高速走行には不向きであり、エンジン非力であった。したがってA9採用する一方で、より「本格的」な巡航戦車として、アメリカクリスティー式戦車をもとにしたA13(後の巡航戦車 Mk.III)が新たに開発されることとなった1937年巡航戦車 Mk.I125輌が発注され50輌がヴィッカース社で、75輌がハーランド・アンド・ウルフ社で生産された。少数は3.7インチ榴弾砲搭載近接支援Close Support)型、Mk.I CSとして組み立てられた。

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