航空機製造(撤退)
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もともと航空機産業にも強い関心のあった豊田喜一郎は、1936年(昭和11年)にフランスの超小型航空機(Pou-du-ciel、おそらくMignet HM.14かその派生型)を購入し、同年東京市に開設したばかりの芝浦研究所(後の豊田理化学研究所)で、豊田英二(同年入社)と飛行士の片岡文三郎(当時嘱託社員。1939年〈昭和14年〉5月正式入社)が研究にあたった。翌1937年(昭和12年)には航空機研究の場を刈谷町に移し、日本海軍から払い下げを受けた一三式練習機に自社の試作部品を組み込み、挙母工場(現・トヨタ自動車本社工場)付近で飛行試験を行った。 1942年(昭和17年)に日本陸軍の要請で川崎重工業と共同出資し、東海航空工業(現:アイシン)を設立した。トヨタにも航空用エンジンの開発・生産が要請され、社内に航空機部門が誕生。刈谷に新設した工場で航空機用空冷エンジン、排気管、滑油冷却器などを開発・生産した。1943年(昭和18年)にはヘリコプターの試作機を完成させた。動力面でも豊田佐吉の開発した環状単流原動機(丸エンジン)をロータリーエンジンとして受け継いで研究したり、ガスタービンエンジンの研究も進めた。 太平洋戦争後にも航空機製造の禁止解除をにらんで航空機分野への進出を企画していたが、立川飛行機から招いた長谷川龍雄(後の初代カローラ主査)から、現状のトヨタの体制では難しいと進言されて断念した。 旧中島飛行機がGHQによって再起不能なまでに解体された際、同社が保有していたロケット技術は、富士産業→富士重工業と、富士精密工業(初代)→富士精密工業(2代目)→プリンス自動車工業の2社に引き継がれていたが、プリンス自工が極端な業績不振から破綻へと向う中、政府はプリンスが保有している航空宇宙技術の離散を恐れ、国内自動車産業の最大手となっていたトヨタ自動車工業(当時)に対してプリンスの吸収合併を持ちかけたが、トヨタはこれを断っている。一方、旧富士重工業の航空宇宙部門は、2005年(平成17年)にトヨタが筆頭株主となったSUBARUが引き継いでいる。 2008年(平成20年)には、三菱重工業が主体となって開発している国産旅客機MRJ(現:Mitsubishi SpaceJet)に対し製造・販売会社(三菱航空機)への出資を明らかにした。 開発・製造事業ではないが、1997年(平成9年)にセゾングループから買収した子会社である朝日航洋と、その傘下のセントラルヘリコプターサービスが航空サービス事業を展開している。
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航空機製造
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「スペースシップ・カンパニー」の記事における「航空機製造」の解説
TSCは、ブームテクノロジーと協力して新しい超音速輸送機を制作しており、最初のプロトタイプは1/3サイズのBoom XB-1「Baby Boom」超音速デモンストレーターである。
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