戦争の推移
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連合軍の最初の正念場は大沽砲台・天津攻略戦であった。租界を攻撃していた清朝の正規軍、聶士成(じょうしせい)の武衛前軍や馬玉崑(ばぎょくこん)率いる武衛左軍と衝突したが、戦闘は連合軍が清朝側を圧倒した。結果聶士成を戦死せしめ、数日後の7月14日には天津を占領するに至る。 直隷総督裕禄(ゆうろく)は敗戦の責を取って自殺した。天津城南門上には、およそ4,000名の義和団・清朝兵の遺体があったという。 そして8月4日には、連合軍は北京に向けて進軍を開始したが、各国の足並みが揃わず歩みが遅かった。軍事作戦上の齟齬や各国軍の戦闘への積極性の違いも原因であったが、そもそも北京に早く到達すべきかどうかという根本的な点でも、意見の一致を見ていなかった為である。イギリスや日本が、北京の公使館を少しでも早く解放すべきと主張する一方で、北京進攻はかえって公使館に対する清朝・義和団の風当たりを強くするという意見もあったのである。また義和団による清朝の混乱をさらに拡大させることで、一層大きな軍事介入を画策する国まであった。いずれにしても連合軍の歩みは緩慢であったため、それだけ北京で救援を待つ人々に苦渋を強いることになり、後々批判されることになる。
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戦争の推移
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「東ローマ・サーサーン戦争 (440年)」の記事における「戦争の推移」の解説
サーサーン朝と東ローマ帝国は、387年の平和条約締結以来、両帝国が遊牧民の攻撃に対するコーカサスの防衛に協力する義務があることで合意していた。東ローマ帝国はサーサーン朝に対し不定期におよそ500ポンド(226キログラム)の金を支払うことで、コーカサスの防衛を援助していた。東ローマ帝国はこの支払いを政治的な助成金とみなしていたが、サーサーン朝はこれを貢納と見なし、東ローマ帝国がサーサーン朝の代理人的な存在であることを示すものであった。やがて東ローマ皇帝テオドシウス2世(在位:408年 - 450年)は支払いを続けることを渋るようになったため、440年にサーサーン朝の王ヤズデギルド2世(在位:438年 - 457年)は東ローマ帝国に対して戦端を開いた。しかし双方ともほとんど成果を上げることはなかった。 東ローマ帝国はヴァンダル族によって南方の前線で強い圧力を受け、439年にはカルタゴを征服されていた。このため、テオドシウス2世は和平を求め、軍司令官のアナトリウス(英語版)をヤズデギルド2世の宿営地に派遣した。同年に行われたその後の交渉において、両帝国がメソポタミアに新たな要塞を建設しないこと、引き続きサーサーン朝がコーカサスを侵略から守るための補助金を得ることで合意した。
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戦争の推移
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以下、本稿では「ゴラン高原」とはゴラン高原周辺の戦区を、「シナイ半島」とはスエズ運河・シナイ半島周辺の戦区を指すものとする。
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戦争の推移
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1825年中旬、ディポヌゴロは王都ジョグジャカルタ周辺の街を攻略することを計画した。計画には叔父マンクブーミやスラカルタのイスラム指導者キヤイ・マジャ(インドネシア語版)も加わった。反乱の動きを察知したオランダは、7月20日に部隊を派遣してディポヌゴロとマンクブーミを捕えようとディポヌゴロの屋敷を襲撃するが、ディポヌゴロたちは間一髪で脱出に成功した。ディポヌゴロはマンクブーミの助言に従いグア・セラロン(インドネシア語版)に拠点を定め、ジョグジャカルタを攻略するため進軍を開始する。ジャワの民衆は作物を安価な固定価格でオランダに買い取られていたため、民衆の大部分がディポヌゴロ軍に協力し、戦闘に長けた山賊集団を味方につけた。また、王族・貴族もオランダへの反感からジョグジャカルタのパンゲラン(王子)37人中15人、上級官吏107人中47人がディポヌゴロ軍に協力している。ディポヌゴロは華僑との連携に反対していたが、東北海岸領の一部の中国人イスラム教徒からは支援を受けている。 ディポヌゴロ軍はオランダ軍からジョグジャカルタを奪い、ジャワ中央部を支配下に置いた。オランダ軍はナポレオン戦争で活躍した歩兵・騎兵・砲兵などの近代式軍隊を動員し、数十の街や村で戦闘が行われた。日中の戦闘はオランダ軍が優勢に立つが、ディポヌゴロ軍に夜襲を仕掛けられて占領地を奪還され、一進一退を繰り返した。ディポヌゴロ軍は武器庫や食糧庫を森の中に隠し、戦闘を続ける中で火薬・銃弾の製造を行った。さらに地形を綿密に調査し、オランダ軍よりも優位に立った。数か月間にわたり雨期が到来するとディポヌゴロ軍は攻勢を強め、一方のオランダ軍はマラリアや赤痢に苦しめられ士気が低下し、停戦を申し出た。停戦が実現すると、オランダ軍は集落にスパイを放ち分断を図り、同時にディポヌゴロ軍兵士の家族を襲撃しようとした。しかし、徴兵したジャワ人兵士が尻込みしたため、襲撃は思うような成果を上げられなかった。 オランダ軍は1826年に東インド副総督に就任したヘンドリック・メルク・デ・コック(英語版)の指揮下で態勢を立て直し、1827年には要塞の建設と本国・スラウェシ島から兵力を増強することでディポヌゴロ軍に反撃した。ジョグジャカルタを追われたディポヌゴロ軍はゲリラ戦を展開して対抗するが、戦争の長期化により兵力を維持できなくなり劣勢に立たされた。1829年に精神的指導者のキヤイ・マジャがオランダ軍に捕縛され、マンクブーミと指揮官アリバシャ・セントットも降伏した。1830年3月28日にディポヌゴロとデ・コックはマゲランで停戦交渉を行うが、ディポヌゴロはオランダ軍の待ち伏せに遭い捕縛された。捕縛されたディポヌゴロはマナド、次いでマカッサルに追放され、1855年に同地のロッテルダム要塞(インドネシア語版)で死去した。
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戦争の推移
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エチオピアの資料によると1977年7月13日午前3時、ソマリア軍の兵士7万人、航空機40機、戦車250両、装甲兵員輸送車350両、火砲600門が国境を越えてエチオピアに侵攻した。この戦力は当時ソマリアが保有していたほぼすべての兵力だと考えられている。7月末にはソマリアはオガデン州の60パーセントを掌握していたが、エチオピア空軍が、ソマリア軍のミグ21戦闘機よりも少数であったF-5戦闘機により反撃に成功し、制空権を奪還した。 その後戦争は長期化し、1983年7月にはエチオピア軍がソマリア領内に侵攻したため、ソマリアは大きな痛手を蒙った。しかし、冷戦が和らぐにつれ、米ソの影響によって関係修復に向かい、またソマリアが内戦に陥って弱体化、大ソマリア主義も沈静化したため、1988年に両国は停戦合意した。
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戦争の推移
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 06:20 UTC 版)
二つの帝国の力が衝突したさまざまな場所で戦争行為は拡大していった。525年に東ローマ艦隊がイエメンのヒムヤル王国を征服するためにアクスム王国の軍隊を移送させ、525年から526年にかけてサーサーン朝のアラブ人の同盟国であるラフム朝(英語版)が砂漠の端の東ローマ帝国の領土を襲撃した。ローマ人はイエメンを影響下に置いてその地のキリスト教徒の利益を保護し(ナジュラーンのキリスト教徒のコミュニティー(英語版)を参照)、さらにペルシアの支配下にあったインドへの香辛料と絹の交易ルートにおいて優位に立つことに関心を寄せていた。 526年か527年までに、双方の帝国間における表立った戦闘が南コーカサスとメソポタミア北部で発生した。サーサーン朝は東ローマ帝国にフン族の侵入の防御に必要な資金を支払わせるために攻勢をかけ続けた。東ローマ帝国は以前よりコーカサスの防御のための補助金をサーサーン朝に対し支払っていたものの、東方のいくつかの都市の修復に資金を必要としたことから深刻な資金不足に見舞われており、528年と529年に同じ地域を襲った一連の地震が状況をさらに悪化させた。 527年に東ローマ皇帝ユスティヌス1世が死去し、新たな皇帝としてユスティニアヌス1世(在位:527年 - 565年)が即位した。戦争の初期の数年間はサーサーン朝に優位な状況で戦況が推移した。527年までにイベリアの反乱は鎮圧され、同じ年の東ローマ帝国によるニシビス(英語版)とテベサに対する攻撃は失敗し、タンヌリス(英語版)とメラバサを要塞化する試みはペルシア軍の攻撃によって阻止された。 528年、ペルシア軍はイベリアからラジカ(英語版)東部の要塞の占領を目指して攻勢をかけた。東ローマ軍はこれらのペルシア軍の成功によって明らかとなった自軍の欠陥の改善を試み、ユスティニアヌス1世は東方方面の軍司令官(マギステル・ミリトゥム)の指揮系統を二つに分け、北方方面に別のアルメニアの軍司令官を任命することによって東方軍を再編成した。528年の南方戦線における最も重要な東ローマ軍の戦略はベリサリウスのタンヌリスへの遠征であり、そこでベリサリウスはローマ人の労働者を保護しつつ国境に面した砦を建設しようと試みた。しかし、ベリサリウスの部隊はタンヌリスの戦いでカワード1世の皇子であるクセルクセス(英語版)が率いるペルシア軍に敗れ、ダラへの退却を余儀なくされた。 529年のラフム朝によるシリアへの襲撃もユスティニアヌス1世をアラブの同盟国を強化させる方向へと向かわせた。ユスティニアヌス1世は、ガッサーン朝(英語版)の王であるアル=ハーリス・イブン・ジャバラー(英語版)(在位:528年 - 569年)の下で、緩やかな連合体から強固な王国へと発展するための支援を行い、その後数十年にわたってガッサーン朝がラフム朝に対し優位に立つことを可能とした。 530年、ベリサリウスはダラの戦いで自軍よりもはるかに大軍であったペルシア軍を相手に勝利に導き、シッタス(英語版)とドロテウスはサタラの戦い(英語版)でミフル・ミフローエー(英語版)が率いるペルシア軍を破った。531年にベリサリウスはカリニクムの戦い(英語版)でサーサーン朝とラフム朝の連合軍に敗北したものの、夏の間に東ローマ軍はアルメニアにおいていくつかの砦を占領し、ペルシア軍の攻撃を撃退した。しかしカリニクムにおける東ローマ軍の失敗は調査団による追及を受け、その結果ベリサリウスは解任された。一方のペルシア軍の指揮官であったアザレテス(英語版)も、重要な要塞を占領できなかったためにカワード1世の不興を買い更迭された。
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