戦争の最期の1年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 05:05 UTC 版)
「クロウフォード遠征」の記事における「戦争の最期の1年」の解説
クロウフォードの遠征の失敗はアメリカのフロンティアに警鐘を与え、多くのアメリカ人はインディアンが大胆になって一連の襲撃を新たにするのではないかと恐れた。アメリカにとってそれ以上の敗北は無かったもののアパラチア山脈より西側にいたアメリカ人にとって、1782年は「流血の年」と呼ばれるようになった。1782年7月13日、ミンゴ族の指導者グヤスタが100名のインディアンとペンシルベニアのイギリス側志願兵幾らかを率い、ペンシルベニアのハンナズタウンを破壊し、開拓者9人を殺し、12人を捕虜にした。この戦争の間にペンシルベニア西部でインディアンから受けた最も深刻な打撃になった。 ケンタッキーでは、アメリカ人が防御を進める中で、コールドウェルとその同盟インディアンが大きな攻勢の準備を行っていた。1782年7月、1,000名以上のインディアンがワパトミカに集結したが、斥候の報告でジョージ・ロジャース・クラークがケンタッキーからオハイオ領土に侵略する準備をしていることがわかり、遠征は中止された。インディアンの大半は即座にあると思われた侵略の情報が嘘だと分かったあとに散開したが、コールドウェルは300名のインディアンを率いてケンタッキーに入り、8月のブルーリックスの戦いで大きな打撃を与えた。コールドウェルはブルーリックスでの勝利の後、アメリカ合衆国とイギリスが和議を行っていたので作戦を止めるよう命令された。アービン将軍は最終的に自ら軍を率いてオハイオ領土に遠征する許可を得ていたが、和平条約の噂が流れて実行の熱が薄れ、実行されることはなかった。11月、ジョージ・ロジャース・クラークがオハイオに最後の攻撃を行い、いくつかのショーニー族の集落を破壊したが、住人に大きな被害は出なかった。 締結されることになる和平条約の詳細が1782年遅くに知らされた。イギリス軍とインディアンが守ることに成功したオハイオ領土については、イギリスからアメリカ合衆国に割譲されていた。イギリスはこの件についてインディアンに何の相談もしなかったし、条約の中でインディアン達のことはどこにも触れられていなかった。インディアンにとってアメリカ人開拓者との闘争は北西インディアン戦争で再開されることになったが、このときは同盟イギリス軍の援助が無いままだった。
※この「戦争の最期の1年」の解説は、「クロウフォード遠征」の解説の一部です。
「戦争の最期の1年」を含む「クロウフォード遠征」の記事については、「クロウフォード遠征」の概要を参照ください。
- 戦争の最期の1年のページへのリンク