最後の攻撃
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カルタゴ軍は翌日に攻撃を再開した。6基の攻城塔には前日と同じように投石兵と投擲兵が搭乗し、複数の場所で城壁の上のセリヌス兵を攻撃し、これを駆逐した。6基の破城槌により何箇所かの城壁が破壊された。瓦礫を撤去した後、カルタゴ軍兵士は繰り返し突撃をかけ、城内に突入した。城壁が破壊されると、セリヌス軍はそこでの防衛をあきらめ、市街の狭い道にバリケードを築いてそこで抵抗を行った。激しい白兵戦が、昼夜を問わず9日間続いた。カルタゴ側で白兵戦の中心となったのはイベリア兵であった。セリヌス兵も激しく抵抗し、建物の屋根の上からは、女性達が瓦やレンガを投げつけた。カルタゴ軍も大きな損害を受けたが、次第に優勢となってきた。9日目になると、屋根から投げつける瓦やレンガはなくなり、カルタゴ軍の行動は容易となった。セリヌス軍は最後にはアゴラを抵抗拠点としたが、粉砕された。結局、6,000名が捕虜となり、3,000名がアクラガスへの脱出に成功したものの、16,000が戦死あるいは戦闘後に虐殺された。神殿に避難していたセリヌス人のみが許されたが、これは避難民達に神殿に火を放たせず、神殿からの戦利品を確保するためであった。
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最後の攻撃
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「エルサレム攻囲戦 (1099年)」の記事における「最後の攻撃」の解説
攻城戦の間、十字軍によって城壁に対する攻撃が何度となく行われたが、すべて撃退されていた。グリエルモ・エンブリアコ(Guglielmo Embriaco)率いるジェノヴァ共和国の部隊は、ヤッファで乗ってきた船を解体し、その木材で攻城兵器を作り上げた。攻城塔は城壁に近づき何度も攻撃を加えたが、イフティハール・アッ=ダウラ率いる守備隊はギリシャ火(石油と硫黄を混合したもの)を攻城塔に浴びせかけ、攻城塔やその上の兵士を炎上させた。7月14日の夜にはジェノヴァ軍の攻城塔が城壁に近づき、守備兵を驚かせて注意を引いた。翌7月15日の朝、守備隊が南側の城壁で攻城塔を焼き払っている頃、イフティハール・アッ=ダウラのもとに、もう一つの攻城塔によって北から市内に侵入されたという伝令が届いた。ゴドフロワの率いる攻城塔が、エルサレム市北東角の城門近くに接近して兵士を城壁に立たせることに成功したのであった。『ゲスタ・フランコルム』によれば、フランドルのトゥルネーの騎士レタルデ(Lethalde)とエンゲルベルト(Engelbert)の兄弟が城内一番乗りを果たしたという。さらにゴドフロワ、その兄弟のブローニュ伯ウスタシュ、タンクレードらが部下とともに城内に突入した。レーモンの率いる攻城塔は濠に足場を取られて進めなかったが、十字軍が市内北部から次々侵入しているという事態に、守備隊はレーモンに降伏して門を開けた。イフティハール・アッ=ダウラら残された守備兵と市民は、市の西の要塞「ダビデの塔」に立て篭もって戦い続けたが、レーモンから降伏すれば助命すると勧告を受けた。彼らは約束が破られるのではないかといぶかりながらもこれを受け入れ、結局約束通り無事にアスカロンへと脱出することを許された。しかしその頃、すでに市内では市民に対する殺戮が始まっていた。
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