最後の攻撃と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 04:28 UTC 版)
5月29日にはまだ1000人程度の日本兵が残っていたと辰口は記述しているが、アメリカ軍の侵攻によって狭い谷間に押し込められていた。山崎大佐は島外からの支援は期待できないことをはっきりと認識しており、最期のバンザイ突撃を決意した。30日には、山崎はアメリカ軍の陣地への奇襲を計画する。山崎は前線を突破し、アメリカ軍の砲台を占拠できないものかと考えていたらしい。そうすれば、残りのアメリカ軍および軍艦に対して砲撃を加えることができると考えたからである。辰口日記の最後の記述は、山崎の命令と病院の負傷者の処置、および家族への別れが記されていた。 「 夜二〇時本部前に集合あり。野戦病院隊も参加す。最後の突撃を行ふこととなり、入院患者全員は自決せしめらる。僅かに三十三年の命にして、私は将に死せんとす。但し何等の遺憾なし。天皇陛下万歳。聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとすることなり。十八時総ての患者に手榴弾一個宛渡して、注意を与へる。私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻耐子よ、さようなら。どうかまた会ふ日まで幸福に暮して下さい。ミサコ様、やっと四才になったばかりだが、すくすくと育って呉れ。ムツコ様、貴女は今年二月生れたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。 ○○様、お大事に。○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、さようなら。 敵砲台占領の為、最後の攻撃に参加する兵力は一千名強なり。敵は明日我総攻撃を予期しあるものの如し。」 」 山崎は5月30日の早朝に攻撃を開始した。攻撃は前線の突破には成功したものの、米軍の予備部隊はただちに体勢を立て直し反撃を開始した。この結果、山崎大佐と多数の突撃に参加した日本兵は大多数が死亡した。生き残りの日本兵はほぼ全員自決し、30名弱のみが捕虜となった。 辰口の死の状況には2つの説がある。1つは、彼が最後の突撃に参加しなかったという説である。5月30日の遅く、バンザイ突撃後の残存日本兵の掃討に当たっていたアメリカ人兵士のチャールズ・W・レードとジョン・ハーンの2人が、辰口の野戦病院が置かれている洞窟へ接近したところ、辰口が洞窟の中から現れ、2人に向かって聖書を振りながら英語で「撃つな! 私はクリスチャンだ!」と叫んだという。レードは辰口の言葉を聞き射撃を止めたが、ハーンは辰口を射殺した。ハーンは後に風と戦闘の騒音のために辰口の言うことが聞きとれなかったと述べ、また聖書が武器のように見えたという。 もう1つの説はチャールズ・レードが1984年に耐子とローラに語ったものである。レードは元アメリカ軍軍曹で、30日朝にバンザイ突撃が行なわれアメリカ軍の前線が突破されたときにはテントの中で寝ていたという。彼はテントの中に駆け込んできた男を射殺したが、その男はアメリカ人だった。その後彼は8人の日本兵が霧の中を接近してくるのを見たので、それらの日本兵も全て射殺したという。そのなかの一人が辰口だったとされている。レードは、遺品のなかから日記帳と住所録を見付けたのだが、住所録にアメリカ人の名前と住所が記されていることを見てショックを受けたという。 また、アッツ島の戦いには、辰口のロマリンダ大学でのクラスメイト2人が軍医として参加していた。
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