残存日本兵とは? わかりやすく解説

残存日本兵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 23:31 UTC 版)

硫黄島の戦い」の記事における「残存日本兵」の解説

組織的な戦闘終わり島の大部分アメリカ軍制圧された後、わずかな水源食糧求めて生き残った負傷した日本兵島の海航空隊の壕などに集結したNHKスペシャル硫黄島玉砕戦・生還者61年目の証言・』(2006) において生還者たちは、「お腹空いて仕方がなかった。それでね、(死んだ仲間がいる施設の)炭を食べた今でも涙が出て来る」「(隠れ家に)たどり着いても、追い出されて、敵のいる所を歩いて行けと言われた。どうせ死んじゃうだろうと」などと証言したその後生き残った日本兵地下陣地潜伏しており、アメリカ軍投降促した生き残った日本兵一部はこれに応じて投降したが、拒否する日本兵もおり、アメリカ軍掃討作戦決行し投降しなかった日本兵潜伏していると思われる壕の入り口埋め潰していった。 最後の生存者として、終戦から4年後の1949年昭和24年1月2日潜伏していた元日本兵2名がアメリカ軍投降した海軍所であった両名千葉県出身一等兵曹 (38) と、岩手県出身二等兵曹 (25)※ ( 山蔭光福兵長松戸利喜夫上等水兵 )であり、終戦後島内洞穴などに隠れて4年間にわたり硫黄島暮らしてきたものであった両名によると終戦から1年半過ぎた頃に島内駐在しているアメリカ兵捨てたおぼしき雑誌拾ったところ、その雑誌東京不忍池アメリカ兵日本人女性一緒にボート漕いでいるグラビア写真があるのを見つけたことにより、日本戦争敗れたことに気付とともに激しくショック受けたという。この元日本兵2名は1月22日羽田空港帰還したその後二等兵曹が「硫黄島日記忘れてきた、本を出版するためにどうしても日記取り戻りたい」とアメリカ軍申し出て同年5月7日に再びアメリカ軍機に乗って硫黄島へ戻った。ところがいくら探して日記が見つからず摺鉢山火口から400mほど離れた場所から「歳」と叫びながら飛び降り自殺をしてしまった。この二等兵曹日本に帰国した後、周辺の者に「生きて帰ってきて申し訳ない」「硫黄島へ日記取り行って見つからなかったら日本へは戻らない」などと漏らしていたことから自殺覚悟決めていた節があり、戦友死んだ地で自分死のうとしたのではないか推察された。

※この「残存日本兵」の解説は、「硫黄島の戦い」の解説の一部です。
「残存日本兵」を含む「硫黄島の戦い」の記事については、「硫黄島の戦い」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「残存日本兵」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「残存日本兵」の関連用語

残存日本兵のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



残存日本兵のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの硫黄島の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS