アメリカ軍の作戦計画
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「サイパンの戦い」の記事における「アメリカ軍の作戦計画」の解説
1943年、アメリカはアリューシャン方面の戦い、ソロモン諸島の戦いで日本に対して反攻を開始したが、太平洋戦線は指揮権が連合国遠征軍最高司令部に一本化されていたヨーロッパ戦線と異なり、ダグラス・マッカーサー大将率いるアメリカ陸軍が主力の連合国南西太平洋軍(英語版)(SWPA)とチェスター・ニミッツ提督率いるアメリカ海軍、アメリカ海兵隊主力の連合国太平洋軍(英語版)(POA)の指揮権が分権していた。マッカーサーはかねてから指揮権の統一を主張しており、一本化した戦力によってニューブリテン島攻略を起点とした反攻計画「エルクトロン計画」を主張したが、栄誉を独占しようというマッカーサーを警戒していたアーネスト・キング海軍作戦部長が強硬に反対し、結局太平洋の連合軍の指揮権の一本化はならず、1943年5月にワシントンで開催された、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチルによる「トライデント会議」によって、太平洋は従来通り連合国南西太平洋軍と連合国太平洋軍が2方面で対日反攻作戦を展開していくことが決定された。 反攻ルートについては、フィリピンの戦いでのバターンの戦い(英語版)の屈辱を早くはらしたいとして、フィリピンの奪還を急ぐマッカーサーは、ニューギニアからフィリピンという比較的大きい陸地を進攻することによって、陸上飛行基地が全作戦線を支援可能となることや、マッカーサーがこれまで行ってきた、日本軍の強力な陣地を素通りして弱い所をたたくというリープフロッギング(蛙飛び)作戦によって損害を減らすことができると主張していたのに対して、ニミッツは、従来からのアメリカ海軍の対日戦のドクトリンであるオレンジ計画に基づき、太平洋中央の海路による進撃を主張し、マッカーサーに対しては、陸路を進撃することは、海路での進撃と比較して、長い弱い交通線での進撃や補給となって、戦力の不経済な使用となることや、日本本土侵攻には遠回りとなるうえ、進撃路が容易に予知されるので日本軍に兵力の集中を許してしまうこと、また、進撃路となるニューギニアなどには感染症が蔓延しており、兵士を危険に晒すことになると反論した。 アメリカ統合参謀本部は、双方の主張を取り上げて、マッカーサーはビスマルク諸島とニューギニアを前進しミンダナオを攻略、一方でニミッツは、ギルバート諸島を攻略、次いで西方に転じて、クェゼリン、エニウェトク、グアム、サイパン、ペリリューへと前進し、両軍はルソン島か台湾で一本になると決められ、8月のケベック会談において作戦案をチャーチルも承諾した。連合軍の基本方針は、まずはナチス・ドイツを打ち破ることを優先し、それまでは太平洋戦線での積極的な攻勢は控えるというもので、投入される戦力や物資はヨーロッパ70%に対して太平洋30%と決められていたが、マッカーサーやキングが、日本軍の手強さと太平洋戦線の重要性をルーズベルトに説いて、ヨーロッパと太平洋の戦力や物資の不均衡さは改善されており、このような大規模な2方面作戦を行うことが可能となっていた。なおもマッカーサーは、中部太平洋には日本軍が要塞化している島がいくつもあって、アメリカ軍に多大な出血を強いることになるため、自分に戦力を集中すべきと食い下がったが、ニミッツは、ニューギニアを主戦線とすると空母部隊が日本軍の陸上基地からの攻撃の危険に晒されると反論した。このニミッツの反論には空母をマッカーサーの指揮下には絶対に置かないという強い意志もはたらいており容易に議論はまとまらなかった。 ニミッツは中部太平洋の侵攻においては、日本海軍の泊地があるトラック環礁が重要拠点と考えており、トラックとパラオ島のある西カロリン諸島の攻略を望んでいたが、ニミッツの上司となるキングは、マリアナ諸島が日本本土と南方の日本軍基地とを結ぶ後方連絡線の中間に位置し、フィリピンや南方資源地帯に至る経済的な生命線の東翼を担う日本にとっての太平洋の鍵で、これを攻略できれば、その後さらに西方(日本方面)にある台湾や中国本土への侵攻基地となるうえ、日本本土を封鎖して経済的に息の根を止めることもできると考え、マリアナが戦争の戦略的な要になると評価しており、その攻略を急ぐべきだと考えていた。 アメリカ陸軍でも、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・ハップ・アーノルド将軍が、新鋭戦略爆撃機B-29による日本本土空襲の基地としてマリアナの確保を願っていた。既に中国本土から日本本土を空襲するマッターホルン計画が検討されていたが、中国からではB-29の航続距離をもってしても九州を爆撃するのが精いっぱいであり、日本本土全てを出撃圏内に収めることができるマリアナはアーノルドにとって絶好の位置であった。また、中国内のB-29前進基地への補給には、補給量が限られる空路に頼らざるを得ないのと比較すると、マリアナへは海路で大量の物資を安定的に補給できるのも、この案が推奨された大きな理由のひとつとなった。そこでアーノルドは連合軍首脳が集まったケベック会議で、マリアナからの日本本土空襲計画となる「日本を撃破するための航空攻撃計画」を提案しているが、ここでは採択までには至らなかった。 アーノルドらの動きを警戒したマッカーサーは、真珠湾から3,000マイル、もっとも近いアメリカ軍の基地エニウェトクからでも1,000マイルの大遠征作戦となる マリアナ侵攻作戦に不安を抱いていたニミッツを抱き込んで、マリアナ攻略の断念を主張した。アーノルドと同じアメリカ陸軍航空軍所属ながらマッカーサーの腹心でもあった極東空軍(Far East Air Force, FEAF)司令官ジョージ・ケニー(英語版)少将もマッカーサーの肩を持ち「マリアナからでは戦闘機の護衛が不可能であり、護衛がなければB-29は高高度からの爆撃を余儀なくされ、精度はお粗末になるだろう。こうした空襲は『曲芸』以外の何物でもない」と上官でもあるアーノルドの作戦計画を嘲笑うかのような反論を行った。 キングとアーノルドは互いに目的は異なるとはいえ、同じマリアナ攻略を検討していることを知ると接近し、両名はフィリピンへの早期侵攻を主張するマッカーサーに理解を示していた陸軍参謀総長マーシャルに、マリアナの戦略的価値を説き続けついには納得させた。キング自身の計画では、マリアナをB-29の拠点として活用することは主たる作戦目的ではなく、キングが自らの計画を推し進めるべく、陸軍航空軍を味方にするために付け加えられたのに過ぎなかったが、キングとアーノルドという陸海軍の有力者が、最終的な目的は異なるとは言え手を結んだことは、自分の戦線優先を主張するマッカーサーや、ナチスドイツ打倒優先を主張するチャーチルによって停滞していた太平洋戦線戦略計画立案の停滞状況を打破することとなり、1943年12月のカイロ会談において、1944年10月のマリアナの攻略と、アーノルドの「日本を撃破するための航空攻撃計画」も承認され会議文書に「日本本土戦略爆撃のために戦略爆撃部隊をグアムとテニアン、サイパンに設置する」という文言が織り込まれて、マリアナからの日本本土空襲が決定された。 その後も、マッカーサーはマリアナの攻略より自分が担当する西太平洋戦域に戦力を集中すべきであるという主張を変えなかったので、1944年3月にアメリカ統合参謀本部はワシントンで太平洋における戦略論争に決着をつけるための会議を開催した。その会議ではマッカーサーには統合参謀本部の方針に従って西太平洋方面での限定的な攻勢を進めることという勧告がなされるとともに、空襲によって無力化されたトラックを迂回して、マリアナ侵攻のフォレージャー作戦(掠奪者作戦)を1944年6月に前倒しすることが決定された。この計画前倒しは、ポナペ、ヤップ、パラオも飛び越したいわばリープフロッギング(蛙飛び)作戦の三段跳ねのような画期的な作戦であって、日本軍には全く予想ができないものとなった。 また、アメリカ側にとっても、ヨーロッパ戦線で計画されているオーヴァーロード作戦とほぼ時期が同じで、太平洋とヨーロッパの2方面で大上陸作戦が準備されることとなり、アメリカの圧倒的な物量が証明されることとなった。空前の規模となったノルマンディ上陸作戦に対しては、マリアナ上陸作戦は規模の面は見劣りするものの、ドーバー海峡横断という比較的短距離侵攻のノルマンディに対して、マリアナは真珠湾から3,000マイル、もっとも近いアメリカ軍の基地エニウェトクからでも1,000マイルの大遠征作戦であり、その作戦の困難さは決してオーヴァーロード作戦に劣るものではないと思われていた。しかも、オーヴァーロード作戦は2年にも渡って準備されてきたが、フォレージャー作戦の準備期間はたったの3ヶ月であった。 ニミッツの連合国太平洋軍司令部は翌4月から作戦準備に入り、航空機からの空撮、潜水艦で沖合からの海岸撮影など偵察を繰り返し、日本側の暗号電報や海軍乙事件で入手した機密書類で得た情報を総合的に分析していく。タラワの戦いなどで日本軍の強固な陣地に苦戦してきたアメリカ軍は、サイパンの日本軍の陣地をつぶさに偵察して「これまで遭遇してきたものよりずっと少数で、海岸沿いにはコンクリート製の機関銃座や小要塞が驚くほど少なかった」と評価し、戦力については、サイパンの日本人3万人の内戦闘員は1万前後だが、上陸実行時には守備隊は1万5千〜1万8千に増強されていると推定(実際は31,629人 とアメリカの推定よりもかなり多かった)、対するアメリカ軍上陸部隊は第2海兵師団と第4海兵師団で約7万1千、他に陸軍第27歩兵師団(英語版)など2.5個師団分を予備兵力として準備しており、また艦砲射撃、戦車、バズーカ、航空機の地上支援など火力と物量で圧倒し、日本軍兵数に関する推定と実際の誤差など問題にならないほど大兵力を集中させていた。 アメリカ海兵隊はタラワの教訓を活かして上陸作戦の改良を進めており、マーシャルの攻略においては、日本軍の守備隊12,000人を撃破したのに対して、アメリカ軍の戦死者はわずか600人であった。海兵隊はさらに上陸戦闘の改良を図るべく、ホーランド・スミス海兵中将は、作戦の1か月前の5月10日に、第2海兵師団と第4海兵師団をハワイに集めて徹底的な上陸訓練を行うなど、アメリカ軍の侵攻時期を見誤っている日本軍と比較して万全の体制で作戦に臨むこととなった。出港準備中であった5月25日、真珠湾でウエスト・ロッホ爆発事故(英語版)が発生し、弾薬の誘爆によって6隻のLSTが沈没、他多数の艦船が損傷、死者163人、負傷者396人を出して大量の弾薬を焼失したが、作戦に与えた影響は最低限に止まり、事故対応で1日出港が延期されただけであった。
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アメリカ軍の作戦計画
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8月13日、アメリカ軍第20航空軍司令部は、第58、第73、第313、第314、第315爆撃航空団に対し山口県光市にある光海軍工廠、同岩国市にある麻里布操車場、大阪府にある大阪砲兵工廠、秋田県秋田市にある日本石油製油所、群馬県伊勢崎市と埼玉県熊谷市の2都市に、動員可能な最大限の航空兵力による攻撃命令を下した。本作戦と並行して連合国と日本との間で終戦交渉が進められていたが、第20航空軍司令官は「交渉は日本側によって遅延させられている」と見なし、期限間近に迫るまでに最大限の航空兵力を発進させる準備を進め、諸作戦を8月14日から8月15日にかけて実施するように命じた。 4施設と2都市が第1攻撃目標として選定された理由については、4施設に関しては重要な正照準攻撃目標のうちこれまで作戦が成功していなかった点、2都市に関しては攻撃目標として設定された180の小都市のうちこれまで作戦が成功していなかった点が挙げられ、光海軍工廠と麻里布操車場と大阪陸軍工廠に対しては昼間の攻撃計画が、日本石油製油所と伊勢崎市と熊谷市に対しては夜間の攻撃計画が立案された。作戦当日の気象状況が芳しくない場合、昼間作戦は翌日に延期されるが、夜間作戦については気象状況に関わらず決行される予定となっていた。 このうち、熊谷市は中島飛行機の部品製造の重要拠点の一つ、または同社製品の重要な分配基地の一つとして見なされていた。戦後、米国戦略爆撃調査団によりまとめられた調査報告書には次のように記されている。 熊谷は前橋、高崎、大宮、伊勢崎、館林、桐生、尾島、足利などの小都市と共に中島飛行機の航空機生産にとって必要不可欠な要素を含んでいる。これらの小工場は、その中心となる太田と小泉の大規模な最終組立工場の破壊にも関わらず、航空機生産の継続を可能とする。生産の多くは大規模な部品工場に寄与する小工場において行われるため、これらの都市を攻撃目標とする価値は、流通される小部品や部分組み立て品の分散または複製を阻止するという事実によって強固なものとなるだろう。熊谷は中島飛行機の部品製造ネットワークの中枢を成している。市内の多くの下請け工場は、下記の識別可能な主要部品工場に寄与しているものと考えられる。 識別可能な工場として秩父鉄道石原駅のすぐ南側に位置する市内月見町の熊谷航空工業、市街地の東端に位置する市内末広の理研工業熊谷工場、国有鉄道熊谷駅と貨物ターミナルのちょうど南東に位置するhinode works(原文ママ)を挙げている。その中で特に熊谷航空工業については中島飛行機の子会社として部品製造やエンジン製造に関わり、中島飛行機太田製作所や小泉製作所や大宮製作所などの主要工場に付属する施設であると特定し、攻撃目標90.13-1650番に指定した。 工場爆撃を目的とする場合は高高度からの精密爆撃が行われるのが常で、その際にはM64 500ポンド爆弾などが使用されたが、熊谷市に対する攻撃に際してはM47、M69焼夷弾が主に用いられるなど、あらかじめ住宅地域を対象とした作戦となった。
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アメリカ軍の作戦計画
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「硫黄島の戦い」の記事における「アメリカ軍の作戦計画」の解説
1944年10月9日、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ海軍大将は「デタッチメント作戦」の準備を発令した。参加兵力は第5艦隊司令官レイモンド・スプルーアンス海軍大将指揮下の5個任務部隊であった。硫黄島派遣軍最高指揮官には第51任務部隊司令官リッチモンド・ターナー海軍中将が任命され、第53任務部隊、戦艦を含む水上打撃部隊である第54任務部隊、高速戦艦2隻と空母12隻からなる第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将指揮)、上陸部隊である第56任務部隊(司令官:ホーランド・スミス海兵中将)がその指揮下に入った。また硫黄島の戦場にはジェームズ・フォレスタル海軍長官自らの同行視察が予定された。 「デタッチメント作戦」を担当する軍首脳は、極めて重要な作戦を指揮するために完璧に近い顔ぶれが選ばれた。ガダルカナル島の戦いからグアムの戦いまで作戦に従事し、敵前上陸作戦の改善に力を尽くしてきた将官や参謀がそのまま選ばれていた。「デタッチメント作戦」の軍首脳は、ガダルカナル島のジャングルを振り出しにマキン・タラワの血で染まった環礁から、マリアナ諸島の岩山まであらゆる地形の戦場を経験し、その戦闘にまつわるほぼ全ての問題を克服して、あらゆる戦技を尽くしてきたと絶大な信頼を寄せられていた。特にアメリカ軍の主要な上陸作戦を指揮してきたターナーへの信頼は抜群であり、世界随一の水陸両用作戦の専門家とも評されていた。ターナーはアルコール中毒気味で、作戦中も毎晩のように旗艦艦上で軍紀違反の深酒をしていたが、その高い能力のため黙認されているほどであった。毎晩のように酩酊していても翌朝には完全に覚醒しており、周囲からはその回復力が「素晴らしい能力」と称賛されていた。スプルーアンスもスミスもターナーには一目置いていた。 上陸部隊はシュミット少将指揮下の第5水陸両用軍団(海兵隊第3、第4、第5海兵師団基幹)だった。第3海兵師団はブーゲンビル島の戦いやグアムの戦いですでにその名を知られていたが、1944年秋の時点ではまだグアムにあり、残存日本兵の掃討作戦に従事していた。これら海兵3個師団に加えて、硫黄島に上陸して陸上任務に就く海軍や陸軍の将兵を含めると総兵力は111,308人にもなった。またこの大量の兵員の輸送や、上陸支援のために用意された艦船は485隻、これに作戦支援を行う第58任務部隊の高速空母群を含めると、総艦船数は800隻、上陸部隊を含めた作戦に従事する将兵は実に250,000人を上回ることとなったが、この兵力は硫黄島の大きさを考えると恐るべき規模であった。 上陸第1波は第4、第5海兵師団(第26海兵連隊を除く)で、硫黄島東海岸に対して第4海兵師団が右側、第5海兵師団が左側に並んで上陸し、第3海兵師団はDデイ+3日まで沖合いで予備兵力として残るとされた。作戦計画は、橋頭堡の迅速な確保と、第5海兵師団には南の摺鉢山、第4海兵師団には右側面の元山周辺の速やかな占領を要求していた。もし両地点の占領に手間取れば、両方向から砲撃を受けて上陸部隊に多数の死傷者が出ると予想された。 東海岸には不利な寄せ波の可能性があったため、西海岸へ上陸する代替計画も立てられたが、北北西の季節風によるうねりの危険性もあり、実行される可能性は低かった。東海岸は摺鉢山から北東へ伸びる約3kmの海岸があり、アメリカ軍はこれを500yd (457.2m) ごとに7つの区画に分割し、左から右(南西から北東)に向かってグリーン区、レッド1区、レッド2区、イエロー1区、イエロー2区、ブルー1区、ブルー2区と名付けた。 第5海兵師団は、第28海兵連隊が一番西側に当たるグリーン区に上陸し摺鉢山へ進撃する。その東側には第27海兵連隊が上陸し西海岸まで到達、次に北東へ向きを変えて作戦区域「O-1ライン」まで前進する。第26海兵連隊は予備兵力とされた。第4海兵師団は、第23海兵隊がイエロー1区とイエロー2区に上陸し、千鳥飛行場を占領して北東へ進撃、元山飛行場の一部と作戦区域「O-1ライン」内を制圧する。第25海兵隊はブルー1区に上陸後、千鳥飛行場とブルー2区を占領しつつ、北東方向へ進撃して作戦区域「O-1ライン」への到達する。第24海兵隊はDデイ初日は予備とされた。 上記の通り、軍首脳は大きな損害は覚悟していたものの、硫黄島の面積や、身を隠すジャングルなどもない岩だらけの地形とこれまでの日本軍の戦術を検討し、戦闘は水際での攻防戦が主となり、作戦が順調に進めば上陸した海兵隊は迅速に日本軍に肉薄して、長くても2週間もあれば日本軍守備隊を殲滅できると考えていた。1945年2月16日、作戦開始を控え、ターナーとスミスは「攻略予定は5日間、死傷は15,000名を覚悟している」と記者会見で述べて、記者たちを驚かせたが、その甚大な損害予想ですら実際にアメリカ軍が被った損害の約半分となった。ある程度の苦戦を織り込んでいたアメリカ軍は、島や洞窟に潜む日本兵を効果的に殲滅し、アメリカ兵の被害を少なくするためには毒ガスの使用が最も効果的との結論を得ていたが(毒ガス禁止のジュネーヴ議定書に当時の日米は署名をしていたが、批准はしていなかった)、統合参謀本部議長のウィリアム・リーヒ海軍元帥から反対する意見具申もあって、国際的非難を顧慮したフランクリン・ルーズベルト大統領は許可しなかった。
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