アメリカ軍の作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/26 13:10 UTC 版)
「クライスラー農園の戦い」の記事における「アメリカ軍の作戦」の解説
この戦闘はアメリカ軍がモントリオールを占領しようという作戦に端を発した。作戦を立てたのはアメリカ合衆国陸軍長官ジョン・アームストロングで、当初は自分で作戦指揮を執るつもりであった。部隊間の連絡が適切でなかったために、1カ所に必要なだけの軍隊を集中させることが難しかったので、最終的には2つの軍隊を組み合わせることになった。ジェイムズ・ウィルキンソン将軍指揮の8,000名の師団がセントローレンス川を砲艇、バトーなどの舟艇で下り、一方でシャンプレーン湖の北から進軍するウエイド・ハンプトン指揮下の4,000名の師団と落ち合い、モントリオール市を攻撃することとされた。この結果として起こったシャトーゲーの戦いとこのクライスラー農園の戦いおよびその他幾つかの小競り合いがセントローレンス川方面作戦として知られている。 この作戦には幾つかの欠陥があった。関係する指揮官の間に不信があった。ウィルキンソンは悪党という芳しくない評判があった。ハンプトンは元々、ウィルキンソンと同じ軍隊ではいかなる立場でも従軍することを拒んでいた。この軍隊には訓練が足りず、制服すら不足していたし、経験の豊富な士官もほとんどいなかった。どちらの軍隊もモントリオール以前に自軍の維持すらできなかったが、包囲戦や長期の活動もできない状態にあった。アームストロングは成功の見込が薄いことが分かると、最終攻撃を自ら率いる考えを棄て、全体の指揮をウィルキンソンに任せた。
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アメリカ軍の作戦
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「ビーバー・ダムズの戦い」の記事における「アメリカ軍の作戦」の解説
アメリカ軍攻撃部隊は、第14歩兵連隊に第6、第13および第23歩兵連隊の各分遣隊、6ポンド野砲2門を擁する砲兵中隊、20名の竜騎兵およびニューヨーク州民兵から40名の騎馬志願兵中隊で構成された。指揮官は最近昇格したばかりの第14歩兵連隊チャールズ・G・ボアストラー大佐であった。6月23日の夕暮れ時、ボアストラーの軍隊は密かに砦を出て、クィーンストンの村に入り、住人の家などの建物を宿舎とした。 カナダ人の間に語り継がれた話では、数人の士官がカナダ民兵大尉のジェイムズ・セコールの家を宿舎とした。セコールは前年のクィーンストン・ハイツの戦いで重傷を負っていた。セコールの妻ローラ・セコールはアメリカ軍士官達がその作戦について議論しているのを立ち聞きした。6月23日の未明、ローラはイギリス軍の基地に警告するために家を出た。アメリカ軍は村の周りに歩哨を立てていたが、ローラが牛の乳搾りに行くという話を信じてローラを出て行かせた。ローラは森を抜けて歩き続け、偶然インディアンの宿営地に辿り着いた。インディアンがイギリス軍基地の指揮官ジェイムズ・フィッツギボン中尉の所までローラを連れて行った。フィッツギボンはローラの話を聞いて直ぐに行動に移り、アメリカ軍が通ってくると思われる道に450名のインディアン戦士を待ち伏せさせた。 このカナダ人の説話と同じくらいありそうな話は、インディアンが彼らの放った斥候からアメリカ軍の存在とその意図に気付き、自ら待ち伏せの手配をしたうえで、フィッツギボンにも注進したというものである(注進はトウェルブ・マイル・クリークのド・ハーレン少佐にもなされた)。
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アメリカ軍の作戦
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「マキノー島の戦い」の記事における「アメリカ軍の作戦」の解説
1814年、アメリカ軍は、北西部州と準州におけるイギリスとインディアンの毛皮交易同盟を分断するために始めた大きな方面作戦の一部として、マキノー島奪還の試みを始めた。アメリカ合衆国海軍長官ウィリアム・ジョーンズが、マキノー島攻撃を支援した。これにはエリー湖のアメリカ戦隊艦船を使うことになり、この時点では他にあまり使い道がないからだった。ミズーリ準州知事のウィリアム・クラークがミシシッピ川沿いプレーリードゥシーンの基地に遠征隊を発進させ(これに対応するためにマクドゥーアルはマッケイの部隊を派遣した)、マキノー島への遠征隊はデトロイトで準備され、ダンカン・マッカーサー准将が、前進基地としてヒューロン湖の南端にグラティオット砦を設立した。 7月3日、アメリカ海軍アーサー・シンクレア代将の指揮するブリッグ艦と砲艦5隻の戦隊がデトロイトを出港し、ジョージ・クローガン中佐の指揮する上陸部隊700名を運んだ。この部隊は、アンドリュー・ホームズ少佐の指揮する急ごしらえ正規歩兵大隊(第17、第19、第24アメリカ歩兵連隊の分遣中隊5個)と、オハイオ州民兵隊からの志願兵大隊で構成され、他に砲兵の分遣隊が付いた。 アメリカ戦隊は真っ直ぐにマキノー島には向かわず、最初にイギリス軍がマキノー島に物資を送り出しているマチェダッシュ湾の基地を探った。アメリカ軍はそれがペニタングィシーンにあると思っていた。霧が出ており、アメリカ軍には入り江や隠れた岩礁の多い地域に詳しい水先案内人が居なかったので、1週間をその湾で費やしたが、何も得られなかった。続いて1812年にはイギリス軍基地だったセントジョゼフ島に向かったが、そこは放棄されていることが分かった。部隊は放棄された基地を燃やし、さらにスーセントマリーにあったカナダウエスト・カンパニーの基地も燃やした。 アメリカ軍は7月26日になってマキノー島に到着した。その到着が遅くなったことで、マクドゥーアルには十分な時間が取れ、セントジョゼフ島とスーセントマリーを守っていた民兵隊2個中隊を呼び寄せて、守備を強化させた。
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アメリカ軍の作戦
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1813年1月13日、ジョン・アームストロング・ジュニアがアメリカ合衆国陸軍長官に指名された。アームストロングは軍人としての経験があり、直ぐにオンタリオ湖の情勢を評価し、新たな作戦を立てて、7,000名の正規兵による部隊を4月1日にサケッツ港に集結させることにした。この部隊はチョウンシーの戦隊と協業し、セントローレンス川の氷が溶けてそこそこの援軍がアッパー・カナダに送り込まれる前に、キングストンを占領することを目指した。キングストンを奪い、その海軍造船所と共にプロビンシャル・マリーンの艦船大半を破壊すれば、キングストンより西にいるイギリス軍は維持できたとしても脆弱なものになるはずだった。キングストンを占領した後では、ヨークの基地やナイアガラ川河口にあるジョージ砦の占領も可能だった。 アームストロングは2月にニューヨーク州オールバニで、北方方面軍司令官ヘンリー・ディアボーン少将と協議した。ディアボーンとチョウンシーの2人ともこの時点でアームストロングの作戦に合意したが、その後考え方を変えた。その月、イギリス領カナダ軍政府司令官ジョージ・プレボスト中将は、凍ったセントローレンス川を遡ってアッパー・カナダを訪問した。ブロックを引き継いでアッパー・カナダ副総督となったロジャー・ヘイル・シーフ少将が病気になり、その様々な任務を遂行できない状態だったので、この訪問は必要だった。プレボストは僅かな援軍分遣隊を伴っただけであり、その途中でオグデンズバーグの戦いにも参戦した。それでもチョウンシーとディアボーンは、プレボストがアッパー・カナダに到着したことが、サケッツ港へのイギリス軍による攻撃が差し迫っている兆候と考え、キングストンには今や6,000名以上の正規兵守備隊が集まっていると報告した。 プレボストは間もなくローワー・カナダに戻り、イギリス軍の脱走兵やカナダのアメリカ寄り市民がキングストン守備隊の真の勢力は正規兵600名と民兵1,400名に過ぎないと報告しても、チョウンシーとディアボーンは以前の過大に評価した数字しか受け入れなかった。さらにゼブロン・パイク准将が指揮する2個旅団が、ニューヨーク州プラッツバーグから冬季の大変な行軍をしてサケッツ港の部隊を補強した後でも、病気や体調不良のために有効な勢力は計画された7,000名に遙かに届かなかった。3月の間、チョウンシーとディアボーンはアームストロングに、湖の氷が溶ければ、キングストンよりも防御が少ないヨークの町を攻撃すべきと提案した。ヨークを占領すれば、ジョージ砦への攻撃を行うことになっていた。 ヨークはアッパー・カナダ植民地首都だったが、軍事的な標的としてはキングストンの重要性に遙かに劣っていた。このときワシントンD.C.に戻っていたアームストロングは、ディアボーンが現地の情報を良く掴んでいるであろうから、作戦変更を黙認するしかなかった。ジョン・R・エルティングのような歴史家が、このことでアームストロングの当初戦略を実質的に裏返すことになったと指摘している。また、アメリカ軍の大半をオンタリオ湖の西端に移動させることで、ローワー・カナダから到着するイギリス軍援軍からの攻撃に対して、サケッツ港が脆弱な状態のままとしてしまった。
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