イギリス軍の基地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/19 16:12 UTC 版)
第二次世界大戦中の1941年8月、一隻のイギリス艦船が東洋艦隊秘密基地の建設作業を開始するため、モルディブ諸島アッドゥ環礁に工兵部隊を上陸させた。英国の指導者たちは依然として公式には極東の防衛拠点としてシンガポールを指定していたが、彼らはマラヤ、スマトラ、ジャワの「マレー防衛線」が日本の攻撃に耐えきれないのではないかと既に心配を始めていたのである。 東洋艦隊は乾ドックや修理施設などの設備のほとんどをシンガポールに保有していた。そして、シンガポール陥落の際、当初はセイロン(現スリランカ)のトリンコマリーに後退することとなった。しかし、艦隊司令官であるジェームズ・サマヴィル提督はこの港では断固たる攻撃から防御できないのではないかと疑いを抱き、この港は不適切であると判断した。 彼はのちに「ポートT」として知られる別の基地をインド洋に欲するようになった。公然とは述べられていないが、そのような秘密基地は1941年当時日本人と内通していると疑われていたインド人国家主義者の詮索の目からも安全であった。 シーヌ環礁という名でも知られているアッドゥ環礁はモルディブ最南端の環礁であり、深いラグーンを囲んだいくつかの大きな島で構成されている。 ラグーンへ接続する海峡はいくつかあるが、そのうちの最良のものは環礁の南端に位置していた。そこで、イギリス海軍は飛行場用地として環礁最南端の島ガン島を選び、艦隊航空隊(FAA)用に3本の滑走路の建設を開始した。 これはのちの1957年にイギリス空軍に移管され、「ガン航空基地」として1971年まで断続的に使用された。 ガン島のFAA飛行場は設計上はイギリスのすべての航空機を扱うことができたが、滑走路が短いために大型の爆撃機がしばしば着陸に失敗した。 工兵部隊が島内のジャングルを切り開いて飛行場の準備をしている間、飛行艇のカタリナとサンダーランドはガン島北岸の桟橋から任務を行っていた。 飛行場の最重要施設は、環礁の西端のガン島とヒタドゥ島に建てられた大型の石油貯蔵施設だった。この施設は洋上の遠くからでも見ることができたが、これは高所の無い環礁では避けられないことだった。 東洋艦隊の第一沿岸防衛連隊は環礁内に存在する主要な6島全てに駐屯軍を配置し、対空砲・対艦砲を配置した。さらに防衛を容易にするために、戦略的に重要な環礁西端の島々に軽便鉄道が敷設された。しかし、この鉄道は戦争末期になるまで供用されなかった。また、ガン海峡を除く全ての海峡は対潜水艦ネットによって常時封鎖されていた。 環礁内に駐留する軍艦へ補給するため、シドニーから缶詰、数トンのアメリカ製タバコ、そして5,200ガロンのラム酒が積まれた2隻の冷蔵庫船が派遣されていた。この船の乗組員は中国人とオーストラリア市民によって構成されており、積み下ろし作業は現地住民であるモルディブ人を雇って行われていた。 アッドゥ環礁は今でこそ主要な観光地であるが、1942年当時は兵員にひどく嫌われていた。守備隊の士気は他と比べても非常に低く、また乗組員はそれを困難な場所と考えていた。 赤道から40マイルしか離れていないガン島は高温多湿であり、また現地の女性は立ち入りが禁止されていて娯楽施設もなかったからである。 1942年4月のインド洋での空母襲撃の間でさえも、日本は東南アジアでの拡大の計画が無駄になるまで基地の存在を知らなかった。 対戦の後半、潜水艦の偵察任務がこの基地の重要性を確立した。 1944年3月、ラグーンへの開口部が対潜水艦網によって恒久的に閉鎖されているにもかかわらず、ドイツ潜水艦U-183はタンカーのブリティッシュ・ロイヤルティを魚雷攻撃した。それは反魚雷網の隙間を通して環礁の外から行われた効果的な長距離攻撃だった。これによりタンカーは大被害を受けたが、沈没するには至らなかった。このタンカーは修理されはしなかったが、戦時運輸省によって石油貯蔵船として使用された。この攻撃によって、ラグーンに深刻な石油汚染が発生し、イギリス軍が清掃に当たった。戦後、1946年1月5日にこのタンカーはラグーン内のヒタドゥー島付近で自沈処理された。その後数年間は石油が漏れ出していたが、のちにこの沈没場所は有名なダイブスポットとなり、海洋生物の楽園となった。
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