イギリス軍の動き
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「デトロイト包囲戦」の記事における「イギリス軍の動き」の解説
7月17日、イギリス軍正規兵、カナダ人毛皮交易業者、およびインディアンの混成部隊がヒューロン湖のマキナック島にあった重要な交易基地を占領した。そこのアメリカ軍小部隊は、以前のハルと同様に戦争が始まったことに気付いていなかった。この攻撃に加わったインディアンの多くがマキナック島に残るか、故郷に帰った中で、少なくとも100名のスー族、メノミニー族、ウィニベイゴ族戦士達がマキナック島から南に移動して、既にアマーストバーグに入っていた者達と合流した。その報せがそれまで中立だったデトロイト近くに住むワイアンドット族に届くと、次第にアメリカ軍に対して敵対的になっていった。ハルはマキナック島が占領されたことを8月3日に知った。この日釈放されたアメリ軍守備兵がスクーナーでデトロイトに到着していた。ハルはこのことで「北部インデァインの巣を開けてしまった」ことを怖れ、カナダ領内に保持していた陣地全てを放棄した。 ハルの補給線はデトロイト川とエリー湖岸にそって60マイル (96 km) 伸びていた。この線はイギリス軍武装艦艇が支配しており、イギリス軍やインディアンに襲撃される可能性が高かった。8月4日におきたブラウンズタウンの戦いで、テカムセの指揮したインディアン部隊が、アメリカ軍ヴァンホーン少佐の指揮する分遣隊を待ち伏せて潰走させ、ハルに送られる物資の多くを捕獲した。ハルはジェイムズ・ミラーの指揮で大部隊を派遣してその通信線を確保し、ブラッシュ少佐の指揮下にフレンチタウンで待っていた300頭の牛、小麦粉を積んだ70頭の馬の輜重隊を護衛させた。8月9日に起きたマグアガの戦いでは、ミラー隊が、第41連隊のアダム・ミュア少佐が指揮するイギリス軍とインディアン部隊をある程度後退させたが、イギリス軍がその戦列を立て直すと、攻撃再開を諦めた。このときミラーは病気に罹っており、この戦闘で味方が被った損失は敵軍よりも大きかったので、完全に自信を失ったように見え、戦場近くに宿営していたが、ハルがデトロイトに戻るよう命令してきた。 一方、アッパー・カナダのイギリス軍指揮官アイザック・ブロック少将は、植民地首都であるヨーク(現在のトロント)にあって、気の進まない議会に対応し、植民地の民兵隊を動員することに関わっていた。その手元にはイギリス軍正規兵1個連隊と民兵隊を支援する古参兵と砲兵の小さな分遣隊幾つかしか無かったが、ナイアガラ川のアメリカ軍は組織が纏まらず物資も不足しており、ニューヨーク州北部オールバニにいる無気力なアメリカ軍総司令官ヘンリー・ディアボーン少将から直ぐに脅威は生じないと気付いていた。ハルの軍隊のみがカナダ領内に入り、脅威を与えていた。7月下旬、ブロックはマキナック島を占領したことを知った。カナダ総督であるジョージ・プレボスト中将から、要請していた援軍1個連隊をアッパー・カナダに向けて進発させたという報せも受けたが、それは断片的に発進させられていた。ブロックはアマーストバーグ補強のためにヨークから西に、正規兵50名と民兵の志願兵250名を派遣した。8月5日、ブロックは議会を閉会にした後で、自ら出発した。ブロックとその部隊は平底船と無甲板船でポートドーバーを出港し、8月13日にアマーストバーグに到着した。これと同時期に200名のインディアン戦士(マキナック島の「西部インディアン」100名とワイアンドット族100名)がテカムセ部隊に合流した。 アマーストバーグでは直ぐにハルが放った伝令を捕獲し、ハル軍の士気が低いこと、直面している多くのインディアンを怖れていること、および物資が乏しいことを知った。ブロックは直ぐにテカムセとの信頼関係を築き、インディアンが自軍と協調することを確実にした。ブロックとテカムセは初対面であり、ブロックがアマーストバーグに到着して直ぐに会見した。伝説に拠れば、テカムセはその戦士達の方を向いて、「彼は男だ」と言った。ブロックもその直ぐ後で、「...私が存在すると考えたこともないような利口で勇気ある戦士だ」と記していた。 ブロックはその部下の大半が反対したことに逆らって、即座にデトロイトを攻撃する決断を下した。イギリス軍は既にある手紙を手配してハルのインディアンに対する恐怖感を弄んでいた。その手紙では、アマーストバーグには既に5,000名以上の部隊がいて物資に不足しているので、これ以上多くのインディアンがマキナック砦から向かってきてアメリカ人の手に落ちないよう求めていた。ブロックは次のような内容の降伏要求書をハルに送った。 私の支配下にある部隊は、デトロイト砦の即座の降伏を求める権限を与えてくれた。皆殺し戦争に加わるのは私の意図ではないが、私の部隊に付設された多くのインディアンが、戦いの始まったときには制御できなくなることに気付くべきである。 イギリス軍が実際より多くいるようにアメリカ兵に信じ込ませるために、ブロックの部隊は何度か威嚇を行った。ジョージ砦の旅団副官トマス・エバンス少佐の進言で、民兵に第41連隊の不要になった制服を与え、イギリス軍の大半が正規兵であるかのように信じ込ませようとした。兵士は1部隊1つのたき火ではなく、個々にたき火を灯すよう命令され、それで部隊を大きく見せるようにした。兵士はアメリカ兵に丸見えになるように行軍して陣地につき、即座に背後の塹壕に跳び込んで元の位置に戻り、行進を繰り返した。同じようなトリックが食事の時にも繰り返された。列を作った兵士が受け取った豆を隠されたポットに投げ入れ、砦から見える所に戻って列の最後尾に付いた。
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イギリス軍の動き
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「アッサンピンク・クリークの戦い」の記事における「イギリス軍の動き」の解説
コーンウォリスは、イギリスへの帰還を考えていたが取りやめ、プリンストンへ馬を飛ばして、ジェームズ・グラント将軍に追いついた。グラントはプリンストンへの兵力補強として、1,000人の部隊を移動させていた。プリンストンに着いたコーンウォリスを、グラントとカール・フォン・ドノプが説得し、トレントンでは、この3人の連合軍で大陸軍を攻撃することになった 。 1777年1月1日に、コーンウォリスと彼の軍はプリンストンに着いた。1月2日に、チャールズ・モーフードに一部を任せて、5,500の兵とともに、11マイル(約18キロ)離れたトレントンを目指した。コーンウォリスの軍は28門の大砲を準備し、3列縦隊で進軍した。メイドンヘッドに着いたコーンウォリスは、アレキサンダー・レスリー大佐に1500人を分遣し、翌朝まで待機するように命じた。
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イギリス軍の動き
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「ノースポイントの戦い」の記事における「イギリス軍の動き」の解説
ロバート・ロス少将の率いる陸軍の精鋭1個旅団と補強のための海兵隊1個大隊は1814年の早い時期にはチェサピーク湾に到着していた。同年8月24日のブラーデンスバーグの戦いでは、慌てて招集されたメリーランド州およびコロンビア特別区の民兵隊を破り、首都ワシントンを焼き討ちした。アメリカ合衆国政府を麻痺させたと判断し、パタクセント川河口で待機していたイギリス海軍の艦船に戻り、より戦略的に重要である港湾都市ボルチモアに向かって北上した。 陸軍3,700名と海兵隊1,000名からなるロスの軍隊は、9月12日朝にポタプスコ川とバック川の間にある半島の先端、ノースポイントに上陸し、ボルチモア市に向かって行軍を始めた。
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イギリス軍の動き
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「クリントン砦とモントゴメリー砦の戦い」の記事における「イギリス軍の動き」の解説
9月半ば(ヘンリー・クリントンがバーゴインに手紙を書いた頃)、クリントンの下にはニューヨーク市を守るために約7,000名の兵士がいたが、その中には訓練が行き届かない約3,000名のロイヤリストも入っていた。バーゴインに送った手紙には、予想される援軍が間に合って到着すれば10日以内にハドソン川を遡ってバーゴイン軍の支援に向かえるという予測に基づく文面があった。9月29日(フリーマン農場の戦い後)、クリントンはバーゴインからの返書を受領したが、その内容は下記のようにクリントンが約束した行動の実行を懇願するものだった。 ... モントゴメリー砦への攻撃あるいは攻撃の脅威を与えることですらも大いに役立つに違いない。 バーゴインからヘンリー・クリントンへ、1777年9月23日 9月末までにニューヨークに到着した艦隊からさらに1,700名の兵士が上陸した。10月3日、クリントンは3隻のフリゲート艦と多くの小さな艦艇に3,000名を乗せてハドソン川を遡り始めた。翌日、パットナムの部隊をピークスキルから誘い出す陽動行動としてタリータウン近くで幾らかの部隊を上陸させた。この部隊はその辺りを歩き回った後に再び艦船に乗り、さらに北に向かった。続いて10月5日にはピークスキルの南3マイル (4.8 km) にあるバープランクス・ポイントで同じような陽動行動を行った。そこでは防御のお粗末な大陸軍前進基地を排除した。この陽動行動が完全にパットナムを騙すことになり、パットナムは東部の高台に軍勢を引き、ハドソン川の対岸に援軍を要請する伝言を送った。 クリントンはこの最後の行動から間もなく、バーゴインからの伝言を受け取った。その中には、クリントン軍が支援のためにオールバニに到着する可能性に基づいて、バーゴインが前進すべきか退却すべきか明白に指示を仰いでいた。バーゴインは10月12日までに返事を受け取らなければ、撤退を強いられることになると記していた。クリントンの返書は10月7日まで書かれず、明らかに形式的な返事で、要請された陽動行動をとることと、オールバニには行けそうにないことを伝え、「バーゴインがクリントンの上官なので、クリントンからバーゴイン将軍に命令を伝えることは考えられない」と付け加えていた。クリントンにとって幸運だったことに、この手紙の写し3通はどれもバーゴインの元に届かなかった。伝令の全てが途中で捕まった。
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