イギリス軍の動きとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > イギリス軍の動きの意味・解説 

イギリス軍の動き

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/20 01:52 UTC 版)

デトロイト包囲戦」の記事における「イギリス軍の動き」の解説

7月17日イギリス軍正規兵、カナダ人毛皮交易業者、およびインディアン混成部隊ヒューロン湖マキナック島にあった重要な交易基地占領した。そこのアメリカ軍小部隊は、以前ハル同様に戦争始まったことに気付いていなかった。この攻撃加わったインディアン多くマキナック島に残るか、故郷帰った中で、少なくとも100名のスー族メノミニー族、ウィニベイゴ族戦士達がマキナック島から南に移動して、既にアマーストバーグに入っていた者達と合流した。その報せそれまで中立だったデトロイト近くに住むワイアンドット族に届くと、次第アメリカ軍に対して敵対的になっていったハルマキナック島占領されたことを8月3日知った。この日釈放されアメリ守備兵スクーナーデトロイト到着していた。ハルはこのことで「北部インデァインの巣を開けてしまった」ことを怖れカナダ領内保持していた陣地全て放棄したハル補給線デトロイト川エリー湖岸にそって60マイル (96 km) 伸びていた。この線はイギリス軍武装艦艇支配しており、イギリス軍インディアン襲撃される可能性高かった8月4日におきたブラウンズタウンの戦いでテカムセ指揮したインディアン部隊が、アメリカ軍ヴァンホーン少佐指揮する分遣隊待ち伏せて潰走させ、ハル送られる物資多く捕獲したハルジェイムズ・ミラー指揮大部隊を派遣してその通信線確保しブラッシュ少佐指揮下にフレンチタウンで待っていた300頭の牛、小麦粉積んだ70頭の馬の輜重隊護衛させた。8月9日起きたマグアガの戦いでは、ミラー隊が、第41連隊のアダム・ミュア少佐指揮するイギリス軍インディアン部隊ある程度後退させたが、イギリス軍がその戦列立て直すと、攻撃再開諦めた。このときミラー病気罹っており、この戦闘味方被った損失敵軍よりも大きかったので、完全に自信失ったように見え戦場近く宿営していたが、ハルデトロイトに戻るよう命令してきた。 一方アッパー・カナダイギリス軍指揮官アイザック・ブロック少将は、植民地首都であるヨーク現在のトロントにあって、気の進まない議会対応し植民地民兵隊を動員することに関わっていた。その手元にイギリス軍正規兵1個連隊民兵隊を支援する古参兵と砲兵小さな分遣隊幾つかしか無かったが、ナイアガラ川アメリカ軍組織が纏まらず物資不足しており、ニューヨーク州北部オールバニにいる無気力なアメリカ軍総司令官ヘンリー・ディアボーン少将から直ぐに脅威生じない気付いていた。ハル軍隊のみがカナダ領内入り脅威与えていた。7月下旬ブロックマキナック島占領したことを知ったカナダ総督であるジョージ・プレボスト中将から、要請していた援軍1個連隊アッパー・カナダ向けて進発させたという報せ受けたが、それは断片的に発進させられていた。ブロックはアマーストバーグ補強のためにヨークから西に、正規50名と民兵志願兵250名を派遣した8月5日ブロック議会閉会にした後で、自ら出発したブロックとその部隊平底船と無甲板船でポートドーバーを出港し8月13日にアマーストバーグに到着した。これと同時期に200名のインディアン戦士マキナック島の「西部インディアン100名とワイアンドット族100名)がテカムセ部隊合流した。 アマーストバーグでは直ぐにハル放った伝令捕獲しハル軍の士気が低いこと、直面している多くインディアン怖れていること、および物資乏しいことを知ったブロック直ぐにテカムセとの信頼関係築きインディアン自軍協調することを確実にした。ブロックテカムセ初対面であり、ブロックがアマーストバーグに到着して直ぐに会見した伝説拠ればテカムセはその戦士達の方を向いて、「彼は男だ」と言ったブロックもその直ぐ後で、「...私が存在する考えたともないような利口で勇気ある戦士だ」と記していた。 ブロックはその部下大半反対したことに逆らって即座にデトロイト攻撃する決断下したイギリス軍は既にある手紙手配してハルインディアン対す恐怖感弄んでいた。その手紙では、アマーストバーグには既に5,000名以上の部隊がいて物資不足しているので、これ以上多くインディアンがマキナック砦から向かってきてアメリカ人の手落ちないよう求めていた。ブロック次のような内容降伏要求書ハル送った。 私の支配下にある部隊は、デトロイト砦の即座降伏求め権限与えてくれた。皆殺し戦争に加わるのは私の意図ではないが、私の部隊付設された多くインディアンが、戦い始まったときには制御できなくなることに気付くべきである。 イギリス軍実際より多くいるようにアメリカ兵信じ込ませるために、ブロック部隊何度威嚇行ったジョージ砦の旅団副官トマス・エバンス少佐進言で、民兵に第41連隊不要になった制服与えイギリス軍大半正規兵であるかのように信じませようとした。兵士1部1つたき火ではなく個々たき火灯すよう命令され、それで部隊大きく見せるようにした。兵士アメリカ兵丸見えになるように行軍し陣地につき、即座に背後塹壕跳び込んで元の位置戻り行進繰り返した同じようトリック食事時に繰り返された。列を作った兵士受け取った豆を隠されポット投げ入れ、砦から見える所に戻って列の最後尾付いた

※この「イギリス軍の動き」の解説は、「デトロイト包囲戦」の解説の一部です。
「イギリス軍の動き」を含む「デトロイト包囲戦」の記事については、「デトロイト包囲戦」の概要を参照ください。


イギリス軍の動き

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/31 08:11 UTC 版)

アッサンピンク・クリークの戦い」の記事における「イギリス軍の動き」の解説

コーンウォリスは、イギリスへの帰還考えていたが取りやめ、プリンストンへ馬を飛ばして、ジェームズ・グラント将軍追いついた。グラントプリンストンへの兵力補強として、1,000人の部隊移動させていた。プリンストン着いたコーンウォリスを、グラントとカール・フォン・ドノプが説得しトレントンでは、この3人の連合軍大陸軍攻撃することになった1777年1月1日に、コーンウォリス彼の軍はプリンストン着いた1月2日に、チャールズ・モーフードに一部任せて、5,500の兵とともに11マイル(約18キロ離れたトレントン目指した。コーンウォリスの軍は28門の大砲準備し、3列縦隊進軍した。メイドンヘッドに着いたコーンウォリスは、アレキサンダー・レスリー大佐1500人を分遣し、翌朝まで待機するように命じた

※この「イギリス軍の動き」の解説は、「アッサンピンク・クリークの戦い」の解説の一部です。
「イギリス軍の動き」を含む「アッサンピンク・クリークの戦い」の記事については、「アッサンピンク・クリークの戦い」の概要を参照ください。


イギリス軍の動き

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/18 16:00 UTC 版)

ノースポイントの戦い」の記事における「イギリス軍の動き」の解説

ロバート・ロス少将率い陸軍精鋭1個旅団補強のための海兵隊1個大隊1814年早い時期にはチェサピーク湾到着していた。同年8月24日ブラーデンスバーグの戦いでは、慌てて招集されメリーランド州およびコロンビア特別区民兵隊を破り首都ワシントン焼き討ちした。アメリカ合衆国政府麻痺させたと判断し、パタクセント川河口待機していたイギリス海軍艦船戻り、より戦略的に重要である港湾都市ボルチモア向かって北上した陸軍3,700名と海兵隊1,000からなるロス軍隊は、9月12日朝にポタプスコ川とバック川の間にある半島先端ノースポイント上陸しボルチモア市に向かって行軍始めた

※この「イギリス軍の動き」の解説は、「ノースポイントの戦い」の解説の一部です。
「イギリス軍の動き」を含む「ノースポイントの戦い」の記事については、「ノースポイントの戦い」の概要を参照ください。


イギリス軍の動き

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 18:09 UTC 版)

クリントン砦とモントゴメリー砦の戦い」の記事における「イギリス軍の動き」の解説

9月半ばヘンリー・クリントンがバーゴインに手紙書いた頃)、クリントンの下にはニューヨーク市を守るために約7,000名の兵士がいたが、その中には訓練が行届かない約3,000名のロイヤリスト入っていた。バーゴインに送った手紙には、予想される援軍間に合って到着すれば10日以内ハドソン川遡ってバーゴイン軍の支援向かえるという予測に基づく文面があった。9月29日フリーマン農場戦い後)、クリントンはバーゴインからの返書受領したが、その内容下記のようにクリントン約束した行動実行懇願するのだった。 ... モントゴメリー砦への攻撃あるいは攻撃脅威与えることですらも大いに役立つに違いない。 バーゴインからヘンリー・クリントンへ、1777年9月23日 9月末までにニューヨーク到着した艦隊からさらに1,700名の兵士上陸した10月3日クリントンは3隻のフリゲート艦多く小さな艦艇に3,000名を乗せてハドソン川遡り始めた翌日パットナム部隊ピークスキルから誘い出す陽動行動としてタリータウン近く幾らか部隊上陸させた。この部隊その辺りを歩き回った後に再び艦船乗り、さらに北に向かった続いて10月5日にはピークスキルの南3マイル (4.8 km) にあるバープランクス・ポイントで同じよう陽動行動行った。そこでは防御お粗末大陸軍前進基地排除した。この陽動行動が完全にパットナムを騙すことになり、パットナム東部高台軍勢を引き、ハドソン川対岸援軍要請する伝言送ったクリントンはこの最後行動から間もなく、バーゴインからの伝言受け取った。その中にはクリントン軍が支援のためにオールバニ到着する可能性基づいて、バーゴインが前進すべきか退却すべきか明白に指示仰いでいた。バーゴインは10月12日までに返事受け取なければ撤退強いられることになると記していた。クリントン返書10月7日まで書かれず、明らかに形式的な返事で、要請され陽動行動をとることと、オールバニには行けそうにないことを伝え、「バーゴインがクリントンの上官なので、クリントンからバーゴイン将軍命令伝えることは考えられない」と付け加えていた。クリントンにとって幸運だったことに、この手紙の写し3通はどれもバーゴインの元に届かなかった。伝令全て途中で捕まった

※この「イギリス軍の動き」の解説は、「クリントン砦とモントゴメリー砦の戦い」の解説の一部です。
「イギリス軍の動き」を含む「クリントン砦とモントゴメリー砦の戦い」の記事については、「クリントン砦とモントゴメリー砦の戦い」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「イギリス軍の動き」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「イギリス軍の動き」の関連用語

イギリス軍の動きのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



イギリス軍の動きのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのデトロイト包囲戦 (改訂履歴)、アッサンピンク・クリークの戦い (改訂履歴)、ノースポイントの戦い (改訂履歴)、クリントン砦とモントゴメリー砦の戦い (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS