イギリスへの帰還
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「チャールズ・コーンウォリス」の記事における「イギリスへの帰還」の解説
1782年、コーンウォリスは、ロンドンで囚われており同等の階級と考えられたヘンリー・ローレンスとの捕虜交換で釈放された。コーンウォリスはベネディクト・アーノルドと共にイギリスに戻り、1月21日にイギリスに上陸したときに快哉を叫んだ。アメリカの特に南部戦線で採用したコーンウォリスの戦術はロンドンの政敵達によって酷評された。しかしコーンウォリスは国王ジョージ3世とイギリス政府の信頼を保ち続けた。 コーンウォリス軍の降伏で戦争が終わったわけではなかったが、アメリカ大陸の戦場では最後の大きな戦闘となった。コーンウォリスは、戦争が継続していたにも拘わらず、即座に別の指揮に就くこともなく、独立戦争は1783年のパリ条約で終わりを告げた。 1785年8月、コーンウォリスはヨーク公フレデリックと共にプロイセンでの操軍に参加し、フリードリヒ大王やラファイエットと戦った。
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イギリスへの帰還
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フランシス・ニコルソン率いる陸路からの遠征隊が、艦隊の遭難と中止を知ったのは、ジョージ湖の近くで野営をしている時だった。ニコルソンは激昂し、かつらを引き裂いて地面に投げ捨てたと伝えられている。 遠征隊は帰路でも運に見放された。ウォーカーはニューヨークに手紙を送り、フィーバーシャム(en:HMS Feversham (1696))と、他にもどれか回してもらえそうな船を要請した。しかしウォーカーが知らない間に、フィーバーシャムと3隻の輸送船「ジョセフ」「メアリー」そして「ネプチューン」が10月7日にケープ・ブルトンの岸で難破して、100人以上が行方不明になっていた。 艦隊は10月10日にポーツマスに着いた。ウォーカーが座乗した旗艦エドガーは、それから何日か後に爆発した。火薬の誤った取り扱いが恐らく原因であった。 この結果、ウォーカーは多くの書類を失い、ウィリアム・フィップスの航海日誌もこの爆発で失われたと主張した。 この遠征が大きな失敗だったにもかかわらず、政治への影響はさほどのものではなかった。この失敗によりハーレーはブルーウォーター政策を早々に引っ込めてしまった。この政策は、敵を追い詰めてから、海軍に攻撃をさせるやり方だった。 しかしながら、ハーレーはさらにヨーロッパの軍事行動の奇策を持ち出して、この政策の実践を続けた。この遠征は時の政府によって行われたため、失敗した理由を詮索するということには、誰もあまり関心をよせなかった。ウォーカーは、アン女王から同情を持って受け止められ、ヒル共々新たな任務が与えられた。 結局ウォーカーは、この遠征に関する詳細かつ率直な記述を、爆発を逃れた日誌や書類と同じように。彼自身の記憶に基づいて綴った。ウォーカーは1715年に地位を剥奪され(ジョージ1世の即位に伴う、権力交代劇のさなかであった)、1728年に世を去った。 イギリス国民の心情は、事前の準備をしそこねたニューイングランド入植地に対し、ケチで頑固であるといった理由で、責任を負わせるようになっていた。このイギリスの国民感情は、入植地からは反発を受け、ニコルソンや総督のジョセフ・ダドレーは、逆にウォーカーを非難した。陸路でケベック入りするイギリス陸軍が、ボストン郊外にいる間中は、軍による統率は、入植者からは必ずしも好意を持っては受け止められず、民間人と軍人との政治的な対立は、のちのアメリカ独立戦争の伏線となって行った。ヒルの士官の一人が書いたものにこうある「かの者どもの悪しき性質と流布、彼らの政府、教義、流儀、そして偽善ともったいぶった物言いは、支持など出来るものではない」さらにこうも書いている、もし入植者たちがより強固な支配下に置かれない限り「より頑固になって、常にこちらの言うことをきかなくなるだろう」 入植者たちは、ウォーカーとヒルとが、遠征の失敗による非難を逃れた事実を、嫌悪感を込めて記していた。
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