イギリスへの帰還~第二次アフリカ探検
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「デイヴィッド・リヴィングストン」の記事における「イギリスへの帰還~第二次アフリカ探検」の解説
1856年12月9日、探検の資金が尽きたリヴィングストンは、支援者を探すために16年ぶりにイギリスへの帰還を果たした。探検家としていくつもの重要な発見を果たした功績からスコットランドの英雄としてもてなされ、1857年、アフリカでの体験を如実に記した『南アフリカにおける宣教師の旅と探検(Missionary Travels and Reserches in South Africa)』を著し、ベストセラーとなる。一方、ロンドン宣教協会からは、一箇所に居住せず方々を探検していたことを理由に除名される。翌1858年には、女王の勅命によるキリマネ駐在大使、ならびにザンベジ探検隊の隊長に任命され、同年3月10日、リヴィングストンは妻と息子を連れ、再びアフリカ大陸へと旅立った。 ケープタウンにて一行は妻の両親と再会するが、妻の体調がすぐれないため、リヴィングストンたちはザンベジ川河口へ向かい、残りのものは静養もかねてクルマンへ向かった。リヴィングストン一行は5月14日に河口へ到達し、蒸気船で川を上り、9月8日にテテに到着、シレ川、マラウィ湖周辺を探検した。1860年にはマコロロ王国を再訪し、翌年にはイングランドより派遣された宣教師の団体である、大学宣教協会 (Universities Mission) の布教のためにルブマ川周辺を探索し、拠点設立に力を貸した。 その間、妻はクルマンでの静養の後に一旦イギリスへ戻り、1862年に夫と合流したが、3ヵ月後の4月27日、シュパンガにてマラリアのために命を落としてしまう。リヴィングストンは悲嘆に暮れながらも、何度もルブマ川上流への探索を試みた。1863年には、政府からの帰還命令を受け、翌7月23日にイギリスへ帰還を果たす。重要な地理上の発見を果たしたにも関わらず、当時はこの探検は失敗に終わったと考える向きがあり、その後、次の探検の資金調達に苦労することとなった。 1年間の休息の間、探検の報告を各所で行いながら、1865年に、彼は2冊目の著書『ザンベジ川と支流(The Zambesi and Its Tributaries)』を著す。この本は発売当日に、当時としては異例の4,800部が発行されているほど注目度が高かった。描かれたアラブの商人とポルトガルの商人との間で行われている奴隷貿易、および現地人への虐待や虐殺の実態は、当時の知識人たちを驚愕させ、奴隷商人たちへの怒りを再度引き起こすこととなったのである。 リヴィングストンが3回目のアフリカ探検に出るきっかけとなったのは、王立地理協会からのナイル川の水源を探求する依頼だった。ナイル川は白ナイル川と青ナイル川に分かれており、青ナイル川はすでに水源の探求が完了していたが、白ナイル川に関しては1860年代に入ってからも、ジョン・スピークとリチャード・バートンの間で、その水源がヴィクトリア湖か否かの論争が繰り広げられていた(この論争は、1989年のアメリカ映画『愛と野望のナイル』として映画化もされている)。スピークは水源は自身の発見したヴィクトリア湖であると1855年の探検をもとに主張したが、リヴィングストンは、ヴィクトリア湖より少し南方にヴィクトリア湖に流れ込む水源があると推測し、1865年8月14日、再びイギリスを旅立った。
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