アフリカ探検
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 04:17 UTC 版)
ヨーロッパ人で初めてこの湖の存在を確認したのは、1858年、イギリス人の探検家 ジョン・ハニング・スピークである。彼は、リチャード・フランシス・バートンと共にナイル川の水源を探す探検を行い、タンガニーカ中央部のカゼ(現在のタボラ)にたどり着く。ここで二人は、北にニアンザ湖、西にウジジ湖と呼ばれる大きな湖があることを聞いた。二人はまず西から探検を進めることとし、1858年2月13日にウジジ湖(タンガニーカ湖)を発見した。その後、体調不良のバートンをカゼに置いてスピークは探検を進め、1858年8月3日、ムワンザでヴィクトリア湖を「発見」した。この湖は現地の言葉でニアンザ湖、またはウケレウェ湖と呼ばれていたが、この湖をナイル川の水源だと信じたスピークは、時のイギリス女王ヴィクトリアの名を取り「ヴィクトリア湖」と命名した。しかし、湖から流れ出る川を確認することはできなかった。スピークとバートンは合流し、帰路についたが、ナイル川の源流については意見が合わず、勝手に公表をしないように両者で申し合わせが成立した。しかしスピークはバートンより先にイギリスに戻り、1859年5月8日に2人の冒険について王立地理学会で講演し、ヴィクトリア湖がナイル川の水源であると主張した。これは大反響を巻き起こしたが、スピークの探検では湖がナイル川の水源である事は確認できなかったため、タンガニーカ湖がナイル川の源流であると考えるバートンと、ヴィクトリア湖がナイルの源流であると考えるスピークの大論争が勃発した。 この論争に決着をつけるべく、スピークは再びヴィクトリア湖探検を企て、ジェームズ・オーガスタス・グラントとともに1860年9月にザンジバルを出発し、西へと向かった。病に倒れたグラントを残して彼はさらに探検を進め、1862年7月28日、ヴィクトリア湖北岸のジンジャから大きな川が滝となって北へと流れ出していることを確認した。スピークはこの滝をリポン滝と命名し、これでナイルの源流論争に決着がついたと考えたが、流路を完全に確認したわけではなかったために論争はなおしばらく続くこととなった。 ナイル源流問題はデイヴィッド・リヴィングストンなども巻き込んだ論争となったが、リヴィングストンはナイルの水源はさらに南にあると信じ探検を行ったために、ヴィクトリア湖を訪れることはなかった。この問題に決着をつけたのは、1875年、アメリカの探検家ヘンリー・モートン・スタンリーによってである。スタンリーはリポン滝の存在を確認した後に船で湖を一周し、これによって、ヴィクトリア湖がナイル川の水源であることが確認された。
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