アフリカ戦線
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アフリカ戦線(アフリカせんせん)
- 1 アフリカ戦線とは
- 2 アフリカ戦線の概要
アフリカ戦線
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1942年11月23日、北アフリカ戦線が終末する中、第501重戦車大隊はチュニジア防衛に投入され。 ティーガーI極初期型20両とIII号戦車(J型及びN型 )25両で編成され、1942年11月23日からチュニジアに揚陸された最初のアフリカ向け部隊で、主にチュニジアでイギリス軍と戦闘を行った。 第5装甲軍、アルニム上級大将指揮下でアメリカ軍進撃阻止に参戦し、1943年2月の春風作戦ではアメリカ第1機甲師団を殲滅状態にした。しかし、アルニムとロンメルの確執から戦略機動の好機を逸したドイツ軍の作戦は後手に回り、物量に勝る連合軍に追いつめられていった。2月には第10戦車師団第3大隊に改称され残余部隊になった501大隊は3月に新編派遣された504大隊に吸収された、その後もチュニス防衛戦で最後まで戦い続けていたが、5月12日、在アフリカ枢軸軍の全面降伏にともない、チュニジアのチュニス東方のボン岬にてイギリス軍に降伏した。
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アフリカ戦線
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詳細は「北アフリカ戦線」、「東アフリカ戦線」、および「地中海の戦い (第二次世界大戦)」を参照 第二次世界大戦初期において独ソ戦はヒトラーを除く各国元首の想定になく、アメリカは未だ参戦を決めかねていた。従ってフランス早期降伏後の連合国はイギリス本土と植民地を残すのみで、その状態でイタリア王国が枢軸国に参戦した事は率直に危機感が抱かれた。フランス海軍が降伏した一方で枢軸海軍は大幅に増え、地中海の制海権は危うい状態に置かれた。加えて陸軍戦力もリビア植民地軍が、植民地兵も含めて約23万6,000万名の兵員を召集していた。対する英軍は中東軍全体で約10万名、北アフリカ駐屯部隊は3万6,000名であった。ただし伊軍は全軍を対英国境に集めた訳ではなく、一部戦力はフランスに枢軸傀儡政権が成立した後も展開を続けさせており、後に遠征に加わった部隊も4個師団に過ぎない。また英軍は戦力数は少なくとも、十分な機械化部隊と重装甲の戦車部隊を配備した精鋭部隊で編成されていたが、逆に伊軍は殆どが徒歩部隊と脆弱な軽戦車で占められていた。 ムッソリーニの強い要請でイタロ・バルボ元帥に英領エジプトへの進出が求められたが、バルボは兵員が多くとも装備と補給が劣悪では英軍に対して不利であるとして大幅な装備改善を求めた。要請はピエトロ・バドリオ参謀総長らによって黙殺され、開戦から暫くにバルボ元帥は不審な事故死を遂げた。新任にはロドルフォ・グラツィアーニ元帥が着任したが、ムッソリーニの期待に反して彼も遠征は無謀であると拒絶した。ムッソリーニは再三に亘って遠征命令を出し、1940年9月13日にグラッツィアーニ元帥は遠征を軍に命令した(エジプト遠征 (Italian Invasion of Egypt) )。戦いは英軍の戦略的撤退により西エジプト制圧に成功したが、装備に勝る英軍の反撃を憂慮したグラッツィアーニ元帥はシディ・バラーニに防御陣地の構築を命じた。しかし防御構築は制海権を英軍側が保持していた関係から思うように進まず、本国でもムッソリーニが無計画にもギリシャ遠征を軍に命じて戦力集中を阻害していた。 翌年に増援を受け取った英軍が反攻作戦「コンパス」を発動すると戦局は一変する。イタリア側の防衛線は地形状の理由から5つの陣地が離れすぎており、それを補う機動防御用の機械化戦力にも乏しかった。物資不足から地雷も僅かにしか配置できず、予想された戦車部隊を押し立てての突撃に対抗できる対戦車塹壕は岩石だらけの地形に構築を阻まれた。頼みの綱である戦車部隊も豆戦車や軽戦車では、英軍の重量戦車には敵わず粉砕された。それでも英軍戦車の一部は砲兵部隊の奮戦で撃退されたものの、防衛線の隙間を突破されると後に続いた機械化部隊によって5つの陣地は包囲され、各個撃破された。遠征に加わっていた4個師団は殆どの要員を失い、後方戦力の撤収すら徒歩移動では機械化部隊の進軍に阻まれるだけだった。結局、一連の戦闘で12万名程度の兵員を失い、更に巻き添えを食らう形で空軍も飛行場に展開していた航空機を撤収時に破壊せねばならなくなった。 平行して東アフリカ戦線(en:East African Campaign (World War II))ではエチオピア・エリトリアからなる東アフリカ帝国軍25万6,000名と、やはり大規模な戦力が召集されていた。ただし同国軍に占める伊軍部隊は7万4,000名と全体の3分の1程度であり、残りの18万2000名は現地の部族兵(アスカリ)で補われていた。また北アフリカ以上に本国から離れた東アフリカには大戦中に一度も補給物資が届く事はなく、武器弾薬の不足が特に激しかった。それでも東アフリカ軍参謀長グリエルモ・ナシは英領ソマリランドへの攻撃を立案、英軍守備隊は海路を使って脱出した(ソマリランドの戦い)。合わせてスーダン・ケニアの国境地帯も制圧下に置かれたが、以降は限られた作戦行動しか行えない状態となった。英軍はインド第4師団を中核にした部隊による反攻作戦を展開、東アフリカ帝国軍はケレンの戦いで激しい抵抗を見せたが、補給不足の正規軍と脆弱なアスカリは英軍の前に退けられた。 1941年11月27日、東アフリカ軍総司令官アメデーオ・ディ・サヴォイア公爵とグリエルモ・ナシら幕僚陣はエチオピア陥落をもって、連合軍による東アフリカ帝国の降伏文書に署名した。 北アフリカ戦線ではドイツ軍からの援軍派遣の打診をムッソリーニが受託し、エルヴィン・ロンメル将軍率いる北アフリカ軍団が実質的な軍事顧問団として派遣された。ドイツ軍の機械化部隊は英軍との戦いで大きな役割を果たしたが、数的には然程多くはなかった事から、依然として北アフリカ戦線の枢軸軍部隊はリビア植民地軍が主体となっていた。ロンメルは徒歩移動の伊軍部隊を占領任務や迂回攻撃時の正面戦力として活用しながら、自軍の機械化部隊を最大限に駆使して戦線をエジプト前面に押し返した。1942年7月に始まったエル・アラメインの戦いでは再建された伊軍部隊が有効な戦いを見せ、第二次戦闘ではフォルゴーレ空挺師団が獅子奮迅の活躍で英軍の攻勢を効果的に撃退した。しかし戦いの結末は連合軍の勝利に終わり、独伊軍は再び防戦に回って大戦後期にはチュニジアにまで退却した。大戦後半に参戦したアメリカ軍が仏領アルジェリアにトーチ作戦を発動すると敗色は決定的となり、ドイツ・イタリア戦車軍の総司令官ジョヴァンニ・メッセ元帥によって独伊軍の武装解除が決断された。
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アフリカ戦線
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「ジョヴァンニ・メッセ」の記事における「アフリカ戦線」の解説
詳細は「en:Tunisia Campaign」を参照 ロシアから帰還後すぐさまエルヴィン・ロンメル指揮下の北アフリカ軍団を再編して立ち上げられる予定であったイタリア・ドイツ戦車軍の司令官に推薦された。一方、前線ではトーチ作戦でヴィシーフランス軍が連合国に寝返り、アメリカ軍を主体とした連合軍がチュニジアの中心地チュニスを目指して攻勢を開始していた(チュニス攻勢(英語版))。ロンメルは迫りくる連合軍に対してファイド峠やスィディ・ブジドの戦い(英語版)でこれを押さえ込んだが、反攻作戦として行われたカセリーヌ峠の戦いとカプリ作戦は失敗に終わった。作戦に前後して体調を崩したロンメルは本国帰還を希望し、前線の指揮は自身に委ねられ、同時にイタリア・ドイツ戦車軍は伊第1軍へ再編された。 伊第1軍は4分の1がドイツ軍部隊から編成される混合部隊であったが、メッセはドイツ人とイタリア人の双方をよく纏め、ロンメルが残した防衛計画の完成に全力を注いだ。これらはヴィシー政権時代に残された要塞線マレト・ライン(英語版)を活用するもので、メッセはカセリーヌの勝利に士気を上げるアメリカ軍が追撃に移るまでに要塞線の再建を完成させた。イギリス軍はプギリスト(拳闘士)作戦(英語版)を発動してマレト・ラインに攻めかかったが、メッセ率いる伊第1軍に大きな苦戦を強いられ、51両の戦車が破壊された。 マレト・ラインの戦いの後もメッセは防衛線を構築しながら巧妙な後退戦を行い、エル・グェタルの戦い(英語版)で連合軍側の戦車を50両以上破壊して、約5000名の兵士を防衛線で殺傷した。しかし連合軍もスピキオ作戦(英語版)、バルカン作戦(英語版)など攻勢を続け、徐々にチュニスへ迫り続けた。ドイツ空軍のマルティン・ハルリンクハウゼン空軍大将とイタリア空軍のリノ・コルソ・フォギエレ(ドイツ語版)空軍参謀長によるチュニジア制空圏維持の努力も、連合軍のチュニジア航空戦(フラックス作戦)(英語版)によって水泡に帰した。更にレトリビューション作戦で海路も封鎖されるともはやチュニジアへの補給はおろか、脱出も絶望的となった。 1943年5月6日、遂にチュニスが陥落するとメッセはこれ以上は組織的な抵抗が不可能であると判断し、ハンス=ユルゲン・フォン・アルニム上級大将との話し合いの上で連合軍との交渉を決定した。5月13日、本国の許可を得てジョージ・パットン大将、ハロルド・アレクサンダー大将ら米英両軍の司令官に枢軸軍の武装解除を提示、アルニム上級大将と共に連合軍によって拘束された。降伏を報告した後、国王からは軍務勲章の大司令官称号(Grande ufficiale dell'Ordine militare di Savoia)と共に陸軍元帥に叙任された。これはサヴォイア王家による最後の元帥叙任となった。
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アフリカ戦線(エル・アラメインの戦い以前)
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「機甲師団」の記事における「アフリカ戦線(エル・アラメインの戦い以前)」の解説
ナチス・ドイツのフランス侵攻緒戦のイギリス海外派遣軍に機甲師団は無く、本格的に機甲師団が実戦参加したのは北アフリカの戦場からであった。フランスからの撤退時に戦車は遺棄されたため、マチルダ歩兵戦車とアメリカから供与されたスチュアート軽戦車・グラント/リー中戦車を中心に、旅団規模で運用された。マチルダは鈍足、スチュアート軽戦車は装甲・火力が不足、グラント/リー中戦車は英国戦車に欠けていた大口径砲を装備していたが、旋回砲塔ではなく車体への装備という時代遅れの構造であり、枢軸軍を破る決定打に欠けていた。
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アフリカ戦線(エル・アラメインの戦い以降)
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「機甲師団」の記事における「アフリカ戦線(エル・アラメインの戦い以降)」の解説
アメリカからシャーマン中戦車の供与が始まり、イギリスも新型クルセーダー巡航戦車の配備を本格化し、師団規模での運用が始まった。歩兵戦車はチャーチル歩兵戦車へと移行した。シャーマン中戦車はバランスの取れた傑作戦車であったが、イギリスはまだ巡航戦車と歩兵戦車の二分論にとりつかれており、中途半端な戦車を作り続けた。クルセーダーMk.Ⅲは三人乗りで、強力な6ポンド砲を生かしきれなかった。チャーチルMk.Ⅲは不整地最大速度13km/hで、装甲が厚くなったMk.Ⅶ以降ではさらに鈍足になった。
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